19世紀の教育事情、とくに教育改革運動

19世紀の教育事情、とくに教育改革運動

アメリカは18世紀後半から、産業革命およびそれに付随する経済活動の拡充で目覚ましい発展を遂げた。もっとも、1819年、1837年、1859年と近代的な経済恐慌にみまわれてはいる。一般的にいって、アメリカの近代産業化は、工場制度の拡大と工場労働人口の増大とを促進した。それは新たな社会階層の出現を意味している。アメリカ教育史のうえでは、公教育制度の成立がみられる。北部は、そして南部の場合には北部よりかなり遅れてではあるが、立法措置や公教育の行政機構の整備などによって、無月謝制学校の設置、特定の宗派・党派に偏しない中立的教育内容の確保、ならびにすべての市民の子弟の義務就学制の徹底を進めた。

 1860年、共和党リンカーンが第16代大統領に選出された。1861年、南北戦争が始まった。このアメリカ史上最大の内乱は、1865年北部の勝利となって終息した。南北戦争後の再建期のなかで、とくに重要となるのは、人種差別や奴隷制などによって公教育の機会を与えられてこなかったアフリカ系アメリカ人の教育問題であった。なかでも、解放民局の活動は目覚ましく、3000の学校を設置した。コモンスクールのモデルに従ってカリキュラムも整備し、アフリカ系アメリカ人教育の普及に努めた。

 南北戦争の余塵(よじん)も収まり、初等教育の義務制化が各州に普及し始めたころ、ペスタロッチ主義のオスウェゴー運動やヘルバルト学派の五段階教授法など、ヨーロッパ教育思想に基づく教育改革運動が起こった。しかし、デューイが実用主義的教育思想の教育論を精力的に展開したこともあって、アメリカ教育はヨーロッパ教育から直輸入することを取りやめ、独自の教育理論に基づく傾向をとり始めた。また教育制度面についていえば、公立ハイスクールが急速に増え、被教育者の進学増大の受け皿となった。そして州立大学が普及し、1910年代なかばには、州立大学は53校に達し、学生数も13万人を数えた。1876年創立のジョンズ・ホプキンズ大学は、アメリカ最初の本格的大学院を設置し、その後、19世紀末までに15の大学院が増設されたのである。[大谷光長・神山正弘]

20世紀前半の教育事情

20世紀に入ると、アメリカは典型的な産業ブルジョアジーの国家体制を成立させ、資本の独占化の兆しがみえ始めた。第一次世界大戦後のアメリカの教育政策は、次の3点において特徴的である。

(1)教師の忠誠宣誓規定。

(2)教科書の統制。とくに歴史教科書の規制が厳しかった。

(3)進化論禁止運動が目をひく。進化論は人間を動物の次元でだけ理解しようとする、それは人間の尊厳に考慮を払わないという批判が、その運動を支えていた。

思うに、これらの教育政策は、階級対立の激化や帝国主義戦争の危機を克服するために、国家主義愛国心の育成と、アメリカニズムによる体制強化の必要から生まれたものであろう。

 1929年10月、大恐慌ウォール街を襲った。この恐慌の破局的危機に直面して、当時の教育者たちは、あるべきアメリカの民主主義と教育のあり方とを追究する姿勢をとり始めた。この姿勢は、とりわけ進歩主義教育の台頭と、カリキュラム改造運動の展開とのなかにみいだされる。前者は、社会的・政治的圧力によって上から抑制されてしまった。また後者は、カリキュラムの類型・構成方法などについて多くの優れた業績を残した。[大谷光長・神山正弘]

20世紀後半の教育事情

1941年日米戦争が勃発(ぼっぱつ)し、1945年戦争は終結した。第二次世界大戦である。アメリカは戦勝国として、世界のリーダーの地位についた。

 第二次世界大戦後のアメリカの教育政策の特色は、戦中・戦後一貫している点にある。具体的には、以下の3点があげられる。

(1)大衆路線の教育構想であって、すべての青少年が最低12年間の学校教育を受けることができる。また、ハイスクール卒業後、1年ないし2年の教育が、希望者には公立教育機関において無償で提供される。

(2)エリート主義に立脚する能力主義構想であって、科学的天才に対する連邦政府奨学金計画などがその一端である。

(3)反共主義の鼓吹であって、アメリカ民主主義が反共の原則を土台としていることを明らかにしたのである。

 1950年6月、アメリカは朝鮮戦争に介入した。この時期からアメリカの教育は国防の道具と化した。しかも、反共イデオロギーの徹底化がその主要課題であった。1957年のソ連スプートニク打上げの成功は、ソ連に対する対抗意識を盛り上げ、またソ連との軍事科学競争を激化させ、ついに「科学技術エリート」の養成を緊急教育課題たらしめるに至った。1957年から1958年にかけて、ハイスクールのカリキュラム改造運動が生じた。その結果、従来の生活カリキュラムから学問中心のカリキュラムへと変貌(へんぼう)した。1960年代に入ると、ケネディ、ジョンソン政権は、アメリカのいま一つの重要問題に取り組むことになった。すなわち、現代の貧困問題にどう対応すべきかがそれであった。65年、初等中等教育法、高等教育法が成立した。初等中等教育法は、貧困家庭の子弟の教育援助を規定し、また高等教育法は、貧困家庭の子弟のうち能力のある者に対して、教育の機会と奨学金貸与をうたっている。

 いまひとつのインパクトは、教育における人種差別の撤廃であった。1954年のブラウン判決において、「分離すれども平等」論が否定され、ここに人種統合教育の新しい出発点が築かれた。64年の公民権法の制定もあり、「積極的類別」が推進された。

 1970年代は、全障害児教育法(1975)の制定はあるもののニクソン政権の下で連邦教育費支出減などの反動的措置が目だった。

 1980年代に入り、「危機に立つ国家」レポートを契機に「上からの教育改革」が推進されたが、後半に入り「下からの教育改革」が追求され、クリントン政権の教育改革政策へ引き継がれた。[大谷光長・神山正弘]

高学歴時代の教育

高学歴時代の教育

〔1〕生涯教育 高学歴の社会において、学校教育は表面上、制度的、形式的にいっそう振興した印象を与えている。しかし、急激な社会構造の変化、技術革新の波、余暇の増大などは、人々に生涯教育の必要を痛感させるまでになった。限られた学校教育の成果だけで人生を乗り切ることは不可能であって、人は生涯にわたる職業専門的な知識・技能の獲得、社会学習の絶えざる受容、文化的・芸術的活動や社会奉仕的活動への参加を、自己の人生課題とすべき必要に気づいたのである。ユネスコの学習権宣言(1985)は、その思想の集約である。

〔2〕教育の病理現象 「豊かな社会」は、いくつかの重大な教育病理現象を生んだ。

(1)児童の非行の問題

(2)児童の生活体験不足の問題

(3)児童の学校不適応の問題

である。(1)は、家庭内暴力、校内暴力、暴走族、シンナー遊び、不純な性行動などにみられる。これらは、いずれも対症療法では解決が困難であり、構造的に正しく対応する必要がある。また(2)は、マッチでうまく火がつけられない、あるいは友達と思いきり遊び、高所に登ったり、幅の狭い所を歩いたりして、スリルと冒険心を満足させない、あるいは植物栽培や小動物の飼育で感じる新鮮な感動を味わえない、などにみられる。児童の生活体験不足の問題は、「サバイバル・アクティビティsurvival activity(生き残れる能力)」の形成・強化の提案を生んだ。子供が山野の自然のなかで生活し、鳥を友とし、木や草花の精を感じ取るなどの体験が、つまり学校外活動における体験が、その子供の人格形成に果たす役割の重要さに注目する必要がある。(3)は、いじめ、不登校、暴力など、能力・学歴社会のストレスを背景とする不適応の問題である。

〔3〕国際理解教育・平和教育・人権教育 日本が情報化時代のなかで世界に貢献し、発言するために、とくに

(1)国際理解の教育

(2)平和教育

の二つが必要である。(1)については、日本は資源に乏しいので、世界に貢献できることといえば、諸科学の基礎理論について優れた業績をあげることが考えられる。同時に対人関係の社会的技術の学習が肝要である。日本人は、島国のなかで生活してきたこともあって、外国語の習得や対人関係の諸技術の学習に関して、一般的に不得手であった。しかし、こうした状況を乗り越えて、日本人は今後ますます国際的に通用する教養や考え方を身につける必要がある。(2)の平和教育についていえば、日本は世界最初の被爆国であり、そのうえ戦争放棄憲法にはっきりうたいあげている国であることからいって、人類の生存と繁栄のため、世界平和の実現に努めることは、日本人の使命であろう。平和の問題は、日本人がリードすることによって、世界の人々の心からの協力を得ることができる、と考えられる。人権教育については、国連の提起や児童の権利条約も踏まえ、より徹底した人権の理解と行動の教育が求められている。[大谷光長・神山正弘]

各国の教育の歴史

 

 次に、アメリカ、ドイツ、中国、ロシア、そしてインドネシアの教育について、沿革を眺めてみたい。

 これらの国々は、いずれも過去・現在にわたって、日本と深いかかわりをもち続けている。アメリカの場合、デューイやキルパトリックの教育理論、および第二次世界大戦後来日したアメリカ教育使節団の教育改革に関する提言などが考えられる。またドイツの場合、ドイツ教育学の日本教育理論への影響は、とくに教育哲学の分野において著しい。ペスタロッチやフレーベルの教育思想、および精神科学的教育理論などは、わが国の教育哲学の発展に影響を与えてきた。そして中国の場合、儒教文化の渡来は、日本人の精神態度を形成するのに貢献してきた。中国からの長い文化の影響を抜きにして、日本人の精神形成を述べることはむずかしい。さらに、ロシアの場合、教育問題における日本のそれとの関係は、ひとことでいえるほど単純ではない。しかし、個人と集団の関係、教科外活動論(学校外活動論)など、体験を基盤とする旧ソビエト教育理論は、日本の教育問題の解明に貴重な視点を与えてきた。最後にインドネシアの場合、1942年から1945年にかけて、第二次世界大戦下における数々の不幸が思い出される。独立後のインドネシアは、建国の大原則のもとで教育の基礎理念を明らかにし、教育問題の解決に積極的に取り組んでいる。

 その国の教育はその国の国民を形成するもっとも大きな要因であることを想起すれば、その国の教育の歴史を正しく把握することが必要であろう。[大谷光長・神山正弘]

アメリカの教育

 

植民地時代

1620年に始まるピューリタンの北部ニュー・イングランドへの移住は、アメリカ植民地建設の第一歩であり、アメリカの教育もこのときに始まった。1642年義務教育令が公布され、1647年には各タウンに初等学校の設置が義務づけられた。子供は読書能力や有用な手職技能を身につけることができた。それに先だって、1636年にハーバード・カレッジが開設され、このカレッジ入学のための準備教育をする中等学校としてラテン・グラマー・スクールが設立された。南部は、農場での働き手が不足していたので、イギリス本土から「年期契約奉公人」が送り込まれた。これらの人々の多くは、おおむねわが子の将来に対して無関心であった。教育は政府の責任ではなく、これらの子供のための教育は徒弟制度や、若干の慈恵学校、農場跡学校old field shoolsで行われた。[大谷光長・神山正弘]

18世紀の教育事情とアメリカの独立

18世紀の初期、北部ニュー・イングランドでは、商人階級が新興勢力として登場した。このことは、北部の社会や文化・教育を大きく変えた。商業的、現実的関心が従来の宗教的関心にとってかわった。カレッジ入学の準備教育を主としたラテン・グラマー・スクールは衰退し、実際的な教育内容(航海術、測量術、簿記、フランス語、スペイン語など)を教えるアカデミーが設立された。また、高等教育機関の教育内容の再編が実施され、伝統にとらわれない新しい型のカレッジ(キングズ・カレッジ――後のコロンビア大学フィラデルフィア・カレッジなど)が創立された。

 南部では、黒人奴隷制が導入された。この導入は従来の南部の労働構造を変え、社会体制の変革を促した。バージニア州では10万エーカー(4万0468ヘクタール)あるいは30万エーカーの農園所有者が出現し、やがてこれら大地主が政治の支配者となった。彼らは自分の子弟に家庭教師をつけたり、またヨーロッパの学校、大学に遊学させたりした。他方、奥地に逃げ込まざるをえなかった小農民階級は、辛い開拓生活を余儀なくされ、また子供の教育のため、自ら管理・運営する学校(地区学校district school)をつくった。

 1776年7月4日、ジェファソンは、人間の自由・平等を基調とする「独立宣言」を起草した。1783年、アメリカ合衆国が正式に承認された。1787年5月25日、フィラデルフィアで合衆国憲法制定のための会議が開かれた。そして、北東部商工業者や保守派政治家が、この合衆国憲法の制定・批准、新政府の実現に尽力した。やがて彼らは国事を支配し、教育・文化のうえでの特権をも享受するに至った。ここにきて、独立革命時における教育機会の拡大、および公立無償の学校制度への情熱は後退し、為政者の、教育へのエネルギーは、もっぱらアカデミーの衣替えとカレッジの拡充に向けられていった。[大谷光長・神山正弘]

西洋文化摂取の教育

西洋文化摂取の教育

1872年(明治5)「学制」が発布され、国民教育制度がスタートした。当時の日本の切実な課題は殖産興業と国民皆兵であった。この課題の達成をめぐる問題が、日本の近代教育制度の展開を特色づけた。

(1)明治5年の「学制」発布 「学制」はフランスの学校制度をモデルとし、またその功利主義的教育観は、アメリカから学んだものであった。1879年(明治12)教育令が制定され、それはアメリカ的自由を基調としたものであった。翌年に改正教育令が制定され、反動化の第一歩が始まった。すなわち教育の基本精神は儒教的道徳にある、という傾向が表面化してきた。この傾向は、1890年の教育勅語渙発(かんぱつ)によって決定的となった。

(2)教育思想の輸入と教育方法の変遷 1879、1880年(明治12、13)ごろから、ペスタロッチの開発主義的教授法やH・スペンサーの功利主義的、自然主義的教育思想が輸入され、1887年になると、ヘルバルト派教育学説が紹介された。いわゆる五段階教授法(予備・提示・比較・総括・応用)が、教育実践の場で好んで行使されるようになった。

(3)実業教育の振興計画 明治政府は、資本主義的産業を促進して、富国の実現を期し、そのための実業教育を盛んにする計画をたてた。明治前期は、産業を促進する外的条件が十分成熟していなかったので、実業教育は期待するほどには進展しなかった。しかしその後、日本資本主義経済が発達するにつれて、実業教育は拡充の一途をたどることになる。

(4)教科書の検定制度と国定制度 明治期の教育において、教科書の国家統制の問題は重要な意味をもっていた。ひとことでいって、それは国民の思想を画一的体制化するのに一役買ったのである。1886年(明治19)教科書検定制度が制定され、しばらくこの制度が運用されていたが、1902年(明治35)教科書疑獄事件が発生したこともあって、翌1903年に教科書国定制度が発足した。この制度は1947年(昭和22)まで続いた。

(5)大正期の新教育運動と昭和期のファシズム化への傾斜 大正期の教育では、大正デモクラシーと新教育運動が特筆される。この時期の教育思想は、デモクラシー思想の導入と、児童心理の重視とをその両輪とする。このことは、ドイツのケルシェンシュタイナーの労作教育論やアメリカのデューイの生活即教育論などが紹介され、また国内でも八大教育主張などが提唱されたことなどから、うかがい知ることができる。そして、当時の教育界で話題になった自由選題主義作文、および雑誌『赤い鳥』の創刊は、明らかに児童中心主義的教育論に立脚するものであった。

 資本主義の発達は、当然、高等教育機関を拡充させた。官立高等専門学校旧制高等学校ナンバースクール以外の高等学校などが、質・量ともに拡充されたのである。しかし、1917年(大正6)から1919年3月まで、総理大臣の諮問機関であった臨時教育会議は、大正デモクラシーの風潮にはきわめて批判的であって、機会あるたびごとに天皇国家主義に基づく倫理の確立を関係者に強いた。

 1927年(昭和2)の金融恐慌、1929年の世界経済恐慌、1931年の満州事変の勃発(ぼっぱつ)、1932年の上海(シャンハイ)事変と五・一五事件、1936年の二・二六事件、1937年の日中戦争、1941年の対アメリカ・イギリス・オランダ開戦――昭和前期の日本は、上記の戦争と事件の連続そのものであった。したがって、この時期の日本教育は、ファシズムへの対応を軸として展開していた、といっていい。なかでも五・一五事件二・二六事件は、日本の教育をファシズム化へと傾斜させたのである。そして1935年の教学刷新評議会の答申、および1937年の教育審議会の答申は、この傾斜をいっそう決定づけた。1940年に小学校が国民学校と改称され、「皇国民」の錬成が教育の目的となった。ただ戦争に勝ち抜くために、超国家主義化・軍国主義化が重点教育政策となった。

(6)戦後教育の出発 1945年(昭和20)8月、第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言の受諾を回答、終結した。戦後の教育は1946年の日本国憲法、1947年の教育基本法、学校教育法に基づいて展開していった。まず、六・三・三・四制の学校制度が発足した。これは、教育の機会均等の理念の実現であり、男女共学を原則とするものであった。また新しい教科として社会科が誕生した。社会科は、学童たちに社会生活を全体的に理解させ、その変化・発展に参加する能力と態度の育成を意図した教科である。これに伴い、戦前の修身科は廃止されたが、1958年に小・中学校に「道徳の時間」が特設され、実施されることになった。

 教育内容・方法は一変した。教育内容は、自主編成ということもあって、カリキュラムの型、編成の諸問題に始まって、教育内容の現代化・精選などの問題に取り組むまでになった。また教育方法においては、問題法、プロジェクト・メソッド、および討議法などを重視する単元学習が採用され、さらに問題解決学習、発見学習、範例学習、ならびに教育機器によるプログラム学習などが実施されてきた。そして、教育評価に関する研究が続けられた結果、客観的な学習評価の仕方が普及したのである。

 また教科書検定制度は、国定教科書の廃止に伴って、第二次世界大戦後ずっと続いてきた。その間、検定機構の整備が繰り返しなされてきた。家永(いえなが)三郎著『新日本史』(高等学校用教科書)の検定をめぐって、1965年(昭和40)第一次教科書訴訟が、そして1967年第二次訴訟、1984年第三次訴訟が起こされ、1997年8月、第三次訴訟が終審し、32年にわたる訴訟が終結した。[大谷光長・神山正弘]

日本の国民教育制度

日本の国民教育制度

日本の国民教育制度の成立事情は、ヨーロッパ諸国のそれと比較して著しく異なっている。なるほど、日本の学校制度のなかには、ヨーロッパの学校制度の模倣・移植が若干みいだされる。たとえば、統一学校がそれである。しかしそれは、見せかけの統一学校であったということができる。1872年(明治5)文部省は「学制」を発布し、統一的な国民教育制度を発足させた。けれども、そのための財政の裏づけは皆無であった。初等・中等・高等の3階梯(かいてい)の学校制度が、学区制によって全国統一的に実施された。思うに、統一的学校制度を実現しようとする努力は、それなりに評価されてよい。が、精神の伴わない形だけの模倣は、その後の国民教育制度の展開をゆがませてしまった。「学制」の趣旨は、身分・性別・貧富などを問わず、すべての国民が就学できる点にある。ところが、学校は、立身出世するため学問をするところであり、その意味で学校は、各人に役だつことを教えるところであるとされた。そのため、学校に必要な経費は受益者負担が原則とされ、また徹底した中央集権制が採用された。「学制」の内容を分析して気づくことは、子供の権利としての学習権はみいだされるが、それは「子供の自由」に裏づけられていないことである。教育費も無償でなくて、受益者負担であった。このようでは、教育の機会均等はしょせんたてまえ論の域を出るはずはなかった。

 明治前期から後期、そして大正期、さらに昭和の初期、対日講和条約(1952発効)以前の中期を通して、統一学校の国民教育制度は一貫してその命脈を保ってきたが、各時期の特質でその中身は大きく変わってきた。そして、昭和も中期以後、つまり第二次世界大戦後占領下の、また講和条約以降の教育になって、初めて統一学校は子供の権利(自由)の実現を目ざし、近代教育理念の実現が課題となったのである。[大谷光長・神山正弘]

日本の教育

日本の教育は、大きく分けて、まず大陸文化依存の教育時代、次に日本文化自覚の教育時代、そして西洋文化摂取の教育時代を経て、現代の高学歴の教育時代に達したとみることができる。以下に日本教育史を概観する。[大谷光長・神山正弘]

大陸文化依存の教育

古代から鎌倉時代までが、大陸文化依存の教育時代と考えられる。応神(おうじん)天皇のとき百済(くだら)から阿直岐(あちき)・王仁(わに)が来朝。552年には百済から仏教が伝来した。仏教の普及は学術・美術・工芸の進歩を促進した。聖徳太子は、607年ごろから隋(ずい)に大使・留学僧・留学生を派遣して、先進国である隋の政治・学事などを学ばせた。また、天智(てんじ)天皇によって庠序(しょうじょ)が創設された。庠序は日本初の官立学校である。

(1)奈良時代の教育事情 710年(和銅3)都が奈良に移り、奈良時代が始まった。遣唐使に随行して、留学僧・留学生が入唐(にっとう)し、また多くの碩学(せきがく)・名僧が来朝し、帰化した。701年(大宝1)の大宝律令(たいほうりつりょう)によって、日本最初の学制が敷かれた。そして、国都に大学寮1校、地方の各国に国学1校ずつが設置された。

(2)平安時代の教育事情 794年(延暦13)都は京都に移り、平安京と命名され、平安時代が始まった。この時代の特徴は、中国文化同化の傾向であり、漢文学が発達し、詩文集の編集がなされ、平仮名・片仮名の国字がつくられ、和歌・和文が発達した。教育の面では、官に登用する人材の発掘と養成を主目的とする大学寮・国学が、改革を繰り返した。しかし、その衰退を防止するまでには至らなかった。他方、空海が創設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、階級や僧俗を問わず世の人を教育して、盛んであった。[大谷光長・神山正弘]

日本文化自覚の教育

やがて世は日本文化自覚の教育時代を迎えた。それは鎌倉時代南北朝時代から江戸時代までを包含している。1192年(建久3)源頼朝(よりとも)は鎌倉に幕府を創立した。鎌倉文化の特徴は、和漢混交の新文体に象徴される日本文化の自覚のなかにみいだされる。教育の面では、官・私立の学校が廃止され、学校以外、つまり家庭、学者の家、および寺院などでの教育が盛んになった。その際、寺院は主として初等教育にあたり、高等専門教育については禅宗の僧堂や勧学院がその中心であった。また社会教育においては、念仏宗日蓮(にちれん)宗・禅宗などの仏教新宗派が民衆を教化した。そして、各地に文庫が設立され、書籍・絵画・器物などが収集・所蔵されて、多数の人々を啓蒙(けいもう)した。

(1)南北朝時代の教育事情 1336年(延元1・建武3)後醍醐(ごだいご)天皇は吉野(よしの)に移った。一方では、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都にあって光明(こうみょう)院を天皇として擁立した。いわゆる南北朝時代である。一般に、この時代は乱世に終始した観があるが、文化・教育の面から考察すると、国民の自覚、日本思想の独立がみいだされ、日本文化本位の教育への移行を看取できる。学問は、朱子学の研究が盛んである一方、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究も盛んであった。『庭訓往来(ていきんおうらい)』は、庶民を主体とする当時の教育実践のようすをまざまざと思い出させる。そして、官立の教育機関はまったく廃絶し、わずかに僧侶(そうりょ)による児童教育、つまり寺院教育がその命脈を保っていた。

(2)室町時代の教育事情 1392年(元中9・明徳3)吉野の朝廷と京都の朝廷が合体し、足利氏が政治上の実権を握った。室町時代の幕開きであった。この時代は政変続出の、世にいう下剋上(げこくじょう)の時代であったが、庶民教化はその最盛期を迎え、社会教育もまた活発であった。また、下野(しもつけ)国(栃木県足利市)の足利学校は、儒学中心の教育を実施し、関東文教の中心的位置を占めていた。そして、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に設立されたセミナリオ、コレジオは、キリスト教の伝道・布教だけでなく、また西洋の学術・文化の伝達のうえでも功績があった。家庭教育関係でいえば、家訓・『花伝書』などを活用して、人々の日常の心得、芸能の精進の方法などが教えられた。

(3)近世封建社会の整備・完成・崩壊 時代の進行とともに、近世封建社会は整備され、完成し、やがて崩壊していった。織田信長が安土(あづち)に築城した1576年(天正4)から、長い江戸時代を経て、廃藩置県によって新しい行政制度が実施された1871年(明治4)までの約300年の長い時代が、該当するのである。近世封建社会の人々にとって、身分は侵すことのできない絶対的なものであった。けれども、やがて商業資本主義・貨幣経済時代の到来・定着につれて、人々は身分制度が人間の自然に反することに気づき、その意味で武士中心の社会に虚偽的なものを感じ始めた。そこでまず、封建社会の主役を勤めた武士の教育について述べ、次に、庶民の教育を明らかにする。

(4)江戸時代の武士・庶民の教育事情 武士の教育機関としては、まず家塾と私塾とがあげられる。家塾は、幕府・諸藩に仕えていた儒官が、幕府・諸藩の内意を得て、旗本・藩士の子弟を教えるところであった。なかでも、江戸幕府が保護していた林家の家塾昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)は最大のものであった。私塾では、中江藤樹(とうじゅ)・伊藤仁斎(じんさい)などの塾がその代表的なものであったが、幕府・諸藩に仕えなかった民間の有識者が任意に設けたのが私塾であった。次に藩学がある。藩学は、昌平黌の設営と前後して、諸藩がそれぞれの領内に設けたものであった。

 庶民の教育には、もっぱら寺子屋があたった。寺子屋の教育内容は、主として読み・書き・算盤(そろばん)であったが、習字・お茶・いけ花・裁縫などを教えるところもあった。次に、寺子屋よりやや程度の高いものに郷学(ごうがく)があった。池田光政(みつまさ)が岡山藩内に設けた123の手習所などがそれである。さらに、近世の中ごろから成人の教化運動が盛んになった。幕府・諸藩は、教諭所および教諭書によって庶民の教化を図り、封建社会の秩序維持に努めた。江戸時代中期になると、石田梅岩を始祖とする心学運動が生じた。心学は、神道(しんとう)・儒教老荘の学・仏教などに基づいて、聖賢の教えを平易に解説することを旨としていた。そのほか、二宮尊徳・大原幽学などの社会教化運動が活動していた。[大谷光長・神山正弘]

教育の機会均等と義務教育

教育の機会均等と義務教育

教育の機会均等は、国家がどういう形であれ、教育制度の構成と運営に参画することで達成される。このことは、義務教育の場合に明らかとなる。すなわち、国家の側からの教育の強制は、保護者がわが子に教育を受けさせる義務をもつという形で現れる。それは、国家が保護者に課する義務である。そして、義務教育は原則として無償教育であることから、国家の側に無償の公教育を提供する義務を負わせるものである。[大谷光長・神山正弘]

統一学校の成立と歴史的展開

教育の機会均等の問題は、統一学校の実現にかかわっている。統一学校とは、地位・階級・信条などのいかんにかかわらず、すべての国民が同一の平等な教育を受けることのできる学校制度のことである。ヨーロッパの学校発達史が明らかにしているとおり、最初に、各時代の支配階級の子弟のための大学から初等教育段階までの学校が創設され、そのあとで一般庶民のための初等学校が設立された。したがって、ヨーロッパの学校制度には複線型のものが多く、中等・高等教育機関と一般庶民の初等学校との連結は、簡単に実現しなかった。

 統一学校に関する構想は、『大教授学』(1657)の著者コメニウスの学校系統論に始まり、熱意と真剣さをもってこれを国家の問題として取り上げたのは、フランス革命議会であった。しかし、その努力もむなしく、財政難のため結局は実らなかった。けれども、この提案、その努力は、その後欧米各国に受け継がれ、また人権思想が理解され普及されたこともあって、各国は統一学校による教育の機会均等を実現する努力を続けてきた。アメリカがいち早く単線型の統一学校体系を実現させた。また、1917年の革命後のソ連第一次世界大戦後のドイツ、1944年バトラー教育法を制定したイギリス、1947年ランジュバン‐ワロン教育改革案を生んだフランスなどは、いずれも複線型の教育制度を廃止し、単線型のものを実現しようと試みた。これらの例は、国民教育制度が、子供の権利の確認に基づいて、教育の機会均等を制度化することによって成立・発展してきたことを物語っている。

 以上述べてきた就学の督励、義務的で無償の教育の実施、そして統一学校の実現などが、国民教育制度の成立・発展の足跡である。[大谷光長・神山正弘]

教育領域の拡大・生涯教育

現代の急激な技術革新の進展は、社会の変化、人間の生き方の変化などをもたらした。社会や人間の生き方の変化などは、当然、教育の変革を必要とする。そして、教育の変革のなかで、とりわけ教育領域の拡大と生涯教育の諸問題が注目される。教育領域については、以前から家庭教育・学校教育・社会教育の3領域が語られ、論じられてきた。そこでは、学校教育は制度的教育として、また家庭教育・社会教育は非制度的教育として特徴づけられ、機能してきた。

 豊かな物質文明のなかで生活することは、子供の成長・発達によい影響・感化を与えるかといえば、単純に肯定ばかりはできない。それは、現実に子供の非行の低年齢化、打算意識の増大、精神態度の脆弱(ぜいじゃく)化などからも理解できる。そして、改めて、家庭教育と社会教育の重要性、および両者と学校教育との統合が注目されるに至った。親も社会人も、学校教師と同様、未熟な若者の健全な育成に責任をもつことが、時代の要請するところとなった。

 時代が人々に多様な生き方を求め、また高齢化問題に明るい解決を求めることもあって、「ゆとりと充実の生の過ごし方」をめぐって、社会教育がいっそう機能することが期待される。職業に従事する人は、新しい技術の導入と果てしない人々の願望とに対応していく必要から、専門的な知識・技能の学習を続行することが必要となった。また一般的状況としても、科学技術の急速な進歩、生活の多様化した社会、高齢化と余暇の拡大など、人々が生涯にわたり知識や技術を自ら学習していける組織・機構づくりが求められている。生涯学習は、これまでの制度化された教育への依存から、社会の教育機能の再編成を要請している。[大谷光長・神山正弘]

続き

英語のeducationおよびフランス語のエドゥカシオンducationということばの語源については、諸説があって解釈が定まってはいない。通説によれば、それはラテン語のエドゥカーレeducareに起源があることばだとされている。そしてeducareは、「外へ」という意味をもつ接頭語e-と、「引く」という意味をもつ動詞ducareとの合成語で、「(子供の内側にある)能力を外に引き出す」という意味をもつと解釈されてきた。ドイツ語でも、同様にラテン語educareの趣旨を取り入れて、er-(外へ)とziehen(引く)との合成語として、エアチーウングErziehungということばが造られている。

 ただし、ラテン語のeducareには、もともとそうした「内側にあるものを引き出す」という意味はなかったとする解釈も根強くある。かりに、「内側にあるものを引き出す」という意味に対応するラテン語をさがすとすれば、educareよりもエドゥケーレeducereの方がふさわしいからである。したがって、「教育とは、語源的には詰め込むことではなく、引き出すことである」という解釈は、なかば思い入れが込められた「改釈」で、それがいつのまにか通説として流通するようになった、というのが真実であるように思われる。

 この「(内側にある)能力を引き出す」ことが「教育」の原義だ、という解釈は、それまで、「上から施されたことを下から習う」こととして受け取ってきた日本人の「教育」の語感に、大きな変化をもたらした。その変化をもたらしたのは、個人の意思を尊重する西欧の近代思想と、「子供の発見」以来の新しい教授技術の到来である。なかでも、明治10年代から20年代にかけて、翻訳書やお雇い外国人教師や、また日本からの留学生を通してアメリカからもたらさられた開発主義の教授法は、初等教育のあるべきモデルを日本に伝えた(若林虎三郎・白井毅編纂(へんさん)『改正教授術』1883~1884)。それは、藩校での講読法や寺子屋での手習いのような知識の一方的な注入や模倣だけをねらいとする伝統的な方法にかわる、事物を実物やその絵図(双六(すごろく)図などの掛図)で示しながら、教師と生徒の間で対話を進めていくという教え方、つまり問答法であった。事物を自分の目で直接みる(=直観する)ということを通して、生徒自身にその印象を語らせ、自分で知識を蓄えていく。同時に、ものをみる力や考える力、判断する力を育てていく(=開発していく)という方法である。この直観主義の教授法や開発主義の教授法を、当時の文部省は初等教育を推進する国の方針として積極的に採り入れたが、この教授法の普及に伴い、日本でも、アメリカ・ヨーロッパ諸国の場合と同じ水準で、「教育」ということばが普及する。単なる知識の詰め込みや、教師による一方的な教え込みをさすことばではなく、子供の側の活動や自発性を促していくキーワードとして、明治期以降、日本語の語彙(ごい)のなかに根づいていった。

 「教育」ということばは、広義にも狭義にも使われる。また、教育の営みや働きは、巨視的にも微視的にも眺められる。

日本における教育権の変遷

日本における教育権の変遷

日本では、国家の教育権が明治の欽定(きんてい)憲法大日本帝国憲法)下において、教育大権ないし勅令主義という形で、教育の義務づけや内容決定を行った。国家の教育権が法制定に完全に貫かれていたわけで、各学校令(勅令)は教科目を規定する、ついでその委任を受けた文部省令が教則(各教科の要旨などを記入したもの)を決める、そして各学校はこの教則に基づいて、校長が教授細目(年間の授業内容の程度と配列を記入したもの)を作成する。教師は校長の検閲を受けて指導案を作成する。以上の記述からわかるように、天皇の教育大権が学校教育の隅々まで貫徹するように仕組まれていた。しかし第二次世界大戦後の日本の教育改革は、被教育者の自由を基本とするものであった。敗戦の苦しい体験のなかで、日本の教育は大きく自由主義個人主義に転化していった。教育基本法の制定は、教育勅語失効を決議せしめた。教育の目的が自主的精神に満ちた個人としての人間の育成にあるという教育基本法の教育目的規定は、近代の教育理念である「教育の私事性」の確認以外のなにものでもない。

 しかも、近代教育理念の「教育への国家不介入の原則」は、現教育行政制度の三大特色である民主主義、地方分権主義、一般行政からの独立主義からわかるように、国家その他の権力の介入を許さないことをたてまえとしている。また「教育の目的はあらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」(教育基本法第2条)ということは、教育の非権力性の原理と国民の教育の自由とを述べていると考えられる。このようにみてくると、近代教育理念における教育権の特色は、現行の教育制度の中核となっている感さえする。[大谷光長・神山正弘]

国民教育制度の発展

 

 一般に、教育の理念が実現されるためには、それが制度化されることが必要である。理念に対応した制度が確立してこそ、人々はその理念の実現を期待できるからである。[大谷光長・神山正弘]

教育の機会均等と歴史的発展

近代の教育思想のもっとも本質的な部分は、子供の権利を承認することである。子供の権利を発達の側面から考察すると、それは、子供の内的諸力の全体的な発達保障を意味しており、またこの自由な発達は、教育機会の平等保障を必要条件とする。つまり、子供の権利の問題は、発達における子供の自由と平等の問題と密接にかかわっているのである。そして、このことの制度化における基本原則は、とりわけ教育の機会均等にみいだされる。

 この教育機会均等の問題は、すでにドイツの宗教改革者ルターが提起している。彼は、子供たちが聖書を読み、神意を理解するために、彼らの就学を督励し、必要があれば強制的に無償で教育を行う必要性を説いた。また、フランス革命の有力な指導者の一人であったコンドルセは、教育を宗教団体の手から解放し、無償で全市民に教育の機会を与える公教育組織の樹立を提案した。しかし、18世紀後半のフランスの学校教育は、依然として特権的支配階級によって独占されていて、保護者の社会的身分・経済的地位などの外的条件による制約が多かった。この傾向は、とくに大学への進学の場合に著しかった。しかも、一般庶民は初等教育を受けることすら十分でなかった。[大谷光長・神山正弘]