近世教育論の諸相

近世教育論の諸相

近世最大の教授学者は、チェコ人のコメニウスである。コメニウスは、祖国が三十年戦争にみまわれるなか、国内外で逃亡生活をしいられながら、教授法の改革による世界平和の実現を説いて回った。その主著『大教授学(ディダクティカ・マグナ)』(1657)は、「あらゆる人に、あらゆる事柄を教授する普遍的な技法」を示すことをねらいとして書かれている。そこで示された教授の技法は、たとえば、草木が季節にあわせて花を咲かせ、実をつけるように、時期をとらえて教えることが大切だ、というような自然をモデルにした技法や、職人たちの手作業の技(わざ)から学びとった技法などが中心で、それらが、だれでも理解できるわかりやすい語り口で、体系的に述べられている。また、教科書としてつくられた『世界図絵(オルビス・ピクタス)』(1658)は、実物を表す挿絵と、それを説明するチェコ語、ドイツ語、ラテン語が併記されていて、「すべての人」を教育の対象にしていることが示唆されている。コメニウスは、教授法という技法の改革を、新しい世界の実現と、新しい世界の担い手の形成という展望のもとで構想したのである。

 フランスの思想家ルソーも、くずれゆく身分制社会と、新たに生まれようとする市民社会に直面しながら、教育論に着手している。エミールという子供の成長過程を追いながら、新しい人間像を描いてみせた『エミール』は、身分制社会にかわる新たな社会像を示した『社会契約論』と同じ年の1762年に出版されている。「人間は自由なものとして生まれた。しかも至るところで鎖につながれている」という『社会契約論』の出だしは、「万物をつくる者の手を離れるときはすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる」という『エミール』の出だしと呼応している。身分制というしばりから解放され、お互いに自由な立場で交じりあうことができるようになった近代人は、市民社会という新しい社会制度をつくりだした。そこでは、人々は「人間(オンム)」としては自由であるものの、「市民(シトワイヤン)」としては相互に義務を負わされる。この人間としてのあり方と市民としてのあり方の両立を図ろうとする人は、結局のところどちらにもなれない。そうしたディレンマにたたされることになる近代人は、子供のうちから、欲望が自己の必要の範囲を超えないようにしつけられ、経験に先だって知識だけが広がってしまうようなことも控えさせられ、事物の必然性にのみ従うように教育されていく。啓蒙主義者のように子供に次々にものごとを教えていくことよりも、不必要な欲望をかきたてられないように、子供を外部の刺激から遠ざけておくような教育法が勧められる。積極的というよりも「消極的な教育」をこそ、ルソーは本来の教育であるとみている。このような教育観に達したのは、やがてドイツの哲学者ヘーゲルによって「欲望の体系」とみなされるようになる市民社会において、人々が、自己を失わずに、また他者を支配するような生き方をもしていかないようにするためであった。

 民衆教育の改革家であったスイス人のペスタロッチもまた、フランス革命後の内戦による政治的な混乱と、産業革命に伴う生活様式の激変から民衆を救い出すために、教育論に取り組んでいる。ルソーと同じように、ペスタロッチも、知識の普及による啓蒙活動だけでは、新たな時代状況のなかにいる人々を救い出すことにはならないと考えた。啓蒙活動よりも、自立への援助こそが民衆を救う方法で、これをペスタロッチは「自助への手助け」とよんでいる。前半生で、民衆とともに取り組んだ農場経営に失敗したあと、ペスタロッチは小作品『隠者の夕暮』(1780)と長編の教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781~1787)を書き、それらのなかで、民衆にとっての幸福は貨幣経済のなかに巻き込まれることを避けて、家族の家計をだいじに守り、身近な生活圏のなかによろこびを感じとることにこそある、と訴えた。子供の教育は、親と子供が、敬神と愛情とで結ばれている家庭のなかでこそ、なされるものである、とペスタロッチは説いたのである。ペスタロッチは、家庭の居間をモデルにして民衆のための学校を営み、そこでの実践の経験を踏まえて、初等教育の一般的教授法を打ちたてた。それが著作『メトーデ』(1800)、『ゲルトルートはいかにその子を教えるか(ゲルトルート児童教育法)』(1801)のなかで示されている。この教育方法論は、「直観のABC」ともいわれ、事物を正確に観察させることから始まって、その直観的な認識をことばで表現させ、事物の概念を形成させていく、という手続きを踏むものであった。分節化された概念形成の手続きが、教授法の段階的進行を定型化していくうえで基礎理論になっている。ペスタロッチ自身は、このことを「教授の機械化」とも「心理化」ともよんでいる。

 ペスタロッチの教育方法論は、その後ドイツをはじめヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国においても、教員養成のためのモデルとして用られた。やがてアメリカのオスウェゴー大学を経由し、日本の留学生によって、日本にももたらされている。「開発主義」とよばれた明治初期の教授法がそれである。[宮寺晃夫]

近代教育の指導理念

近世以来、新たな時代に対応する人間像が描かれ、そのイメージを現実のものにするための教育の方法原理が示されてきたが、そうした教育研究が「学問」に仕立てあげられるようになるのは、19世紀になってからである。なかでも、いち早く国民教育制度の整備に取り組んだドイツでは、大学での専門分野として「教育学」(ペダゴーギク)を生みだしている。教育学の前史をたどれば、18世紀後半のドイツの大学で、主として哲学部に所属する研究者によって教育学の講義がなされていたことに始まる。そのなかに、ケーニヒスベルク大学のカントもいたが、ほかにも、ハレ大学のニーマイヤーAugust Hermann Niemeyer(1754―1828)らがいた。彼らの多くは、当時の哲学の主流であったカントとフィヒテの哲学にのっとりながら、個人の自由意思を認めることと、その個人の意思への介入作用とが、どのようにして両立することができるのかという難問に取り組みながら、「教育(エアチーウング)」、「教授(ウンターリヒツ)」などの教育学の主要な概念を定義していこうとしていた。[宮寺晃夫]

近代教育の理念と展開

近代教育の理念と展開

 

 近世ルネサンスの時代を迎え、形成されるべき人間像は鋳型のような画一的なものから解放されるようになる。教育研究も、単なる教え込みの技法の開発にとどまらず、形成されるべき人間像の描き直しを含めて、本格的に展開されていく。そのとき、まず批判されたのは、これまで子供たちに、カテキズムによる暗唱やラテン語の文法の暗記だけを強制してきた学校の教師たちであった。エラスムスラブレーのようなルネサンスの代表的な人文主義者の著作では、学校の教師は、教会の権威者と同じように、しばしば戯画化されて描かれている。

 教会などの権威を背景に人間像を描くのではなく、人間をその本来の姿で描き出すためには、読み書きのような知的な能力に訴えるのではなく、身体や感覚の力のような、だれもがもって生まれる能力に焦点をあわせていくことが必要であった。16世紀には、言語verbumよりも実物resがもつ教育力に着目して、新たな人間像を描き出そうという実学主義(リアリズムrealism)の教授法の改革者が相次いで現れ、ヨーロッパの諸邦に人間形成の技法を説いて回るようになった。ラトケをはじめ、そうした教授学者たちの試みは、宗教上の対立や、国家間の利害の衝突で、長く平和な時代が遠のいていたヨーロッパに、国家を超えた新たな枠組みを築こうという壮大な願いに基づいていた。[宮寺晃夫]

古代・中世における教育研究

古代・中世における教育研究

社会が、その成員によって価値観を共有されていて、伝統的な慣習や習俗が、そのまま保たれている状態にある限り、「教育はどのように営まれるべきか」というような、改まった問い直しがなされることもない。しかし、その社会のなかに、さまざまな考え方の人々が流れ込み、一元的な世界ではなくなってくると、人々は、「さまざまな価値のうち、どのような価値をこそ、子供たちに伝えていかなければならないのか」ということを考えなければならなくなる。教育に関して、このような反省的な思考がいちはやく展開された社会は、古代ギリシアであった。

 「ポリス」とよばれる古代ギリシア都市国家では、長期にわたったペロポネソス戦争(紀元前431~前404)のあと、異邦人たちの流入が相次ぎ、国としての安定性が短期間に失われた。それまで受け継がれてきた因習だけで、ものごとの善し悪しを判定することができなくなってしまった。不安定で複雑化した国家の状況を背景にして、慣習や習俗だけではなく、反省的な思考を働かせることによって、「善きもの」や「真なるもの」を導き出していこうとする知識人たちの活動が始まった。「善きもの」や「真なるもの」を見極める方法を、青年たちに、技法として教えることを職業とする知識人も登場するようになった。このような「ソフィスト」とよばれる一群の知識人のなかに、哲学史上有名なソクラテスがいる。

 ソクラテスが教育研究の歴史のうえで重要なのは、なによりも、青年たちに教えていくべき「善きもの」や「真なるもの」が、社会のこれまでの因習のなかだけに求められるものではない、としたことにある。ソクラテスは、「善とは何か」などと青年たちに問いかけ、対話を通して、青年たちをしだいにディレンマ(ジレンマ)に追い込んでいった。そのうえで、彼らに「無知の自覚」、つまり、知っているつもりでいたが、実は何も知らなかったのだという自覚を促し、一緒に真理を探求していこうという意欲を呼び起こしていった。このソクラテス独特の真理の探求法は、教育の方法としては「ソクラテス法」とも「助産法」ともよばれている。ソクラテスは、「知識を技術のように授けていくこと」という教育の常識をくつがえして、「知識は産ませるものである」という画期的な教育観を導入したのである。

 ソクラテスは、自分自身はたったの一語も書き残していないが、弟子のプラトンが書いた対話篇(へん)のなかに、ソクラテスの言動が記録されている。そのなかでも、自分自身の死を賭(か)けて、人はどのように生きるべきかを人々に教えようとした『ソクラテスの弁明』と『クリトン』そして、道徳を教えることはできるのかという問題をきっかけにして、「教える」という営みそのものを説き明かしている『メノン』と『プロタゴラス』は、教育研究の発端を示すものとして重要である。

 プラトンは、ソクラテスの死後、ソクラテスを主人公とする対話篇を数多く書いたが、しだいに自分自身の独自の考え方を盛り込むようになっていった。とくに、中期以降といわれる作品群では、ソクラテスの口を借りて、プラトン独自の世界観を展開している。それは理想主義とも観念論ともよばれる世界観で、「善きもの」や「真なるもの」が存在する場所を「イデアの世界」とみなし、この世の経験界から区別するもので、二元論の世界観であった。教育の課題は、この世の経験界につなぎとめられている人々を目覚めさせて、イデアの世界に目を向けさせることに求められた。中期の著作とされる『国家』のなかでは、洞窟(どうくつ)に鎖でつながれ入口の方を振り向くことができなくなっている人々のことが語られている。人々は、ただ、洞窟の奥の壁に映っている陰を真実だと思い込んでいるだけである、とプラトンソクラテスに語らせ、彼らを入口の光源の方に向き直させることが哲学者の使命で、その哲学者を養成するためにこそ教育はなされなければならないとしている。理念ともいえる、あるべき姿との対比を通して、経験界の現実や現象を批判的に考察していく論じ方が、その後「プラトン主義」の名で継承されていくことになる。

 アリストテレスは、プラトンが設立した学園アカデメイアで学んだプラトンの教え子であるが、プラトンとは異なり、自然や経験界の事象を丹念に観察することによって、ものごとの本質に迫ろうとした。人間の生き方も、生まれおちた国家(ポリス)のあり方と結びついており、この意味で人間は「ポリス的存在(ゾーン・ポリティコン)」であり、教育もこの制約のなかでなされるほかない。人はそれぞれ、各自の職能によって独自の徳すなわち役だち(アレテー)をもっている。つまり、船をつくることが上手な人には、船づくりの徳が備わっている。しかし、そうした個別の徳のほかに、あらゆる人がもたなければならない「人間としての徳」もあるはずで、それはその人が属している共同体、つまり国家に対してどれだけの奉仕をしているかで定まることである、とアリストテレスはみなしている。つまり、共同体を離れて人間としての徳を抽象的に論じても、意味のないことである。こうした、「共同体主義」とも「アリストテレス主義」ともよばれる考え方は、アリストテレスの著書『ニコマコス倫理学』に系統だって述べられており、プラトンの『国家』と同じように、その後中世、近代、現代に至るまで、教育研究の古典として読み続けられている。

 古代ギリシアで、国家の危機とともに始められた教育研究は、続く古代ローマの時代には、ローマ帝国の確立とキリスト教の国教化に伴い、しだいに普遍性(カソリシズム)を志すようになり、神学の教義研究のなかに埋没していく。ストア派の開祖となったゼノン(キプロスのゼノン)のように、アリストテレスの考えを引き継ぎ、ものごとの本質(ロゴス)を、その表れとして質料のなかに探ろうとしたり、キケロのように、政治家として活躍するかたわら、現実に対して懐疑的に向き合ったりする者もいた。

 やがて、ローマ帝国の末期には、アウグスティヌスによって、「三位一体」の教義に基づくキリスト教神学が確立される。子供の教育も、「カテキズム」とよばれる、教会による教化の一環として教義問答書の教え込みとしてなされた。一般的に教育研究も、教え込みの技法の開発に限られ、新たな人間像を提示するなどの、教育の目的にまで踏み込んだ課題が追究されることはなかった。しかし、「普遍的なものではない」という意味での「インディヴィドゥウム」、つまり「個としての個」にまなざしが注がれるようになったのは、けっして近代になってからのことではなく、中世のキリスト教教義をつくった人々の間で、すでに始っていたのである。[宮寺晃夫]

教育の社会史

教育の社会史

事実としての教育ばかりでなく、実践としての教育も、その歴史は人類史とともに古い。子育てやしつけの技法は、親から子へと連綿と伝えられてきたし、また、それぞれの社会には、「一人前」として認められるための目安が受け継がれてきた。一日一反の耕作や、米俵一俵・力石をかつぐことなどで、「大人」としての力量が量られるという風習は、各地で永く伝えられてきた。また、子供から大人になるまでに何段階かの区切りを設け、それぞれの通過儀礼を経ることによって、共同体の一員としてだんだん認知されるようになるというシステムも存在してきた。それらは、教育方法あるいは教育課程(カリキュラム)とよばれるには、あまりに大雑把で実用本位のものであり、また地域に特有のものである。日本では、子育てや産育の習俗を民俗学の手法で調査し、その伝統を、日本人の教育観の土台に位置づけていくような研究が、第二次世界大戦の前から地道になされてきた。なかでも、柳田国男(やなぎたくにお)、橋浦泰雄宮本常一(みやもとつねいち)、大藤(おおとう)ゆきの業績はよく知られている。彼らの研究によって、日本人が子供を神からの授かりものとしていつくしむと同時に、生みの親だけではなく、世間が力をあわせて子供の成長を見守り、子育てに責任を分かちあってきたことが明らかにされた。「親」は、もともと、生みの親だけをさすことばではなく、名付け親・養い親・親方・親分などをも広くさし、このような人々全体で子供の養育、生活指導、職業指導、生活保障などを分かちあう連合体を意味していた。

 しかし、現代社会においては、地域のなかで連帯してなされる子育ての知恵が急速にくずれてきており、それを受け伝えるシステムが機能しなくなってきているという問題が浮上している。

 外国人の視点からなされた研究例として、アメリカの文化人類学者R・F・ベネディクトは、著書『菊と刀』(1946)のなかで、日本の教育について、「日本の子育ての風習が、日本人のパーソナリティーの形成に影響を与えており、とくに、日本人の内向性と対外的な残忍性とには、幼児期の母子関係の癒着がかかわっている」とする分析を行っている。

 ヨーロッパでは、近年、社会史という歴史学の新しい手法を用いて、大人たちの目に映った「子供像」の歴史的な変遷をたどる研究がなされている。フランスの歴史家アリエスは、中世から近代にかけての家族の肖像画や、子供の墓碑銘などを史料として分析していき、人々が「子供」を「大人」とは異なる独自の存在として庇護(ひご)の対象にするようになっていったのが、歴史上それほど古いことではなく、近世の始まりのころからであることを実証的に明らかにしている。一般には、西欧社会での「子供の発見」は、近代の思想家ルソーに帰せられるが、社会史のうえでは、それよりも早く人々の心性(メンタリティー)のなかに芽ばえていたのである。教育思想史や、学校制度・教育政策の歴史などのうえには記録として残されてこなかった教育の実態が、一般民衆の生活レベルで少しずつ解明されてきている。

続き

ヘルバルトの教育目的論がそうであったように、教育の目的は、だれに対してもあてはまる目的として、一般的に述べられるのが普通である。教育の目的は、ひとりひとりの子供を、そこに到達させなければならないものというよりも、教育的な努力が、それに沿ってなされなければならないものである。つまり、教育の目的は、ゴールを示しているというよりも、ルールを示しているのであり、スポーツ競技のルールと同じように、だれに対しても等しくあてはまるものである。そのために、教育の目的は一般的なものであると同時に、公共的なものでもなければならない。日本の教育関係の法規のなかで、最上位に位置する「教育基本法」は、その第1条で、「教育は人格の完成をめざし……」と規定している。学校をはじめ、すべての教育事業は、この目的に沿って行われなければならないのである。

 それに対して、ひとりひとりの子供に実際に到達させることを目ざす目的が「教育目標」である。教育の目標は、ひとりひとりの子供の実態をよくみたうえで、その子供につけたい能力や資質を具体的に想定したもので、それが実際にどの程度達成されたかが、実践の適否を判断する基準にもなる。したがって、教育目標はできるだけわかりやすく、明確に記述されることが望ましい。たとえば、思考力や判断力のような目に見えない能力についても、目に見えるひとつひとつの行動の変化に翻案して教育目標を記述するようなやり方が、1950年代、1960年代のアメリカで提案されたこともある。それが「行動目標論」である。

 現代日本の学校教育では、この行動目標論をやや緩和して、各教科ごとに、学年別の到達目標をいくつかたて、それを基準にして児童・生徒の成績の評価を行っている。この評価法は「観点別評価」とよばれている。教育目標論は教育評価論と密接に連動している。[宮寺晃夫]

人間と教育

 

続き

教育することができ、また教育することが必要となる理由についても、個人の観点と社会の観点の両面から考えることができる。

 近代ドイツの哲学者カント(1724―1804)は、18世紀の末になされたケーニヒスベルク大学での教育学講義のなかで、「人間は教育されなければならない唯一の生きものである。……人間は教育によってのみ人間になることができる。人間は、教育が人間からつくりだしたものにほかならない」といっている。これは、人間が人間として生きていくうえで、教育が、いかになくてはならないものであるのかを強調するためにいわれたことばである。教育の可能性と必要性は、このように、人間という種の特異性から説明されることが多い。

 現代オランダの教育人間学者のランゲフェルトMartinus J. Langeveld(1905―89)は、人間がみな、初めは子供として生まれ、存在しているという自明のことに人間の本質を洞察し、独特の人間学を展開しているが、人間は、まさしくホモ・エドゥカンドゥムhomo educandum、つまり「教育を必要とする存在」なのである。

 ランゲフェルトは次のように述べている。たしかに、人間は、生物の他の種とは異なり、生後かなり長い期間、自力による摂食や歩行や意思伝達ができず、それらの能力は本能というよりも、周囲の大人たちからの世話を通して少しずつ可能になっていく。人間の新生児には、自主的に行為を発動させる本能は備わってはいない。ただ、周囲の人から世話を受けるという依他性が、組み込まれているだけである。この依他性という本性が、人間に教育が可能であることと、教育が必要であることの説明原理として使われ、教育を社会的、歴史的な文脈のなかで意義づけていく説明原理にもなる。

 カントは前掲の教育学講義のなかで、次のようにも述べている。「かつて同様に教育された人間によってのみ教育されるのは、注目すべきことである。そうであるから、若干の人々に訓練や教授がたりないのは、その人たちの児童にとってよくない教師をつくることになる。」

 教育は世代から世代へとなされる作用であり、連綿と続けられてきた歴史的、文化的なつながりのなかで、各世代はそれぞれ次世代への責任を引き受け、伝えるべき内容の選択や、伝え方についての工夫を重ねてきた。そのときそのときの文化の状況や政治・経済のあり方とも密接に関わりをもちながらである。ドイツの神学者シュライエルマハーは、19世紀の前半にベルリン大学でなされた教育学講義のなかで、教育が成長世代から未成長世代になされる作用であるとしたうえで、だからこそ、教育は単なる人間形成のための技術というよりも、政治と結びついた技術であると述べている。

 教育は人間の種としての特異性に基づいて可能になり、必要となるが、同時に、人間が歴史のなかで社会を形成し、その社会を世代を超えて受け継いできたからこそ、教育は可能になり、また必要となるのである。[宮寺晃夫]

教育目的論と教育目標論

実践としての教育は何を目ざしてなされるべきなのか、という議論は、「教育目的論」のなかで行われる。一般的に、教育目的論の課題は、教育を受けた結果完成される人間像を描くことである。その人間像は、理想的人間像のように理念として描かれる場合もあるが、それよりも実際的な、実現の可能性のあるレベルで描かれる場合もある。実現可能な場合の理論を、とくに「教育目標論」とよぶ。

 近代ドイツの教育学者ヘルバルトは、教育研究の歴史のうえで画期的な書物である『一般教育学』(1806)を書いているが、これには、「教育の目的から導かれた」というサブ・タイトルがつけられている。その「教育の目的」の規定を、ヘルバルトはまず、人々が子供の教育に携さわるときにどのような意図と願いを抱くのか、ということを考えることから始めている。人々は、子供の幸せや、社会に出てから役だつなどの現実的な目的を、「教育の目的」として思い描いてきたが、そうしたこの世での「任意の目的」のほかに、すべての人が無条件で従わなければならない「必然の目的」もあるはずで、こうした目的こそが、「一般教育学」を導いていく「教育の目的」である、とヘルバルトはみなした。それが「道徳的性格」という目的である。この概念の内容を、ヘルバルトは、経験界を飛び越えた思弁の世界で抽象的に語るのではなく、芸術的素養豊かな彼独自の美学に従い、かつ一般の人々が理解できる平易なことばで説き明かしていった。「道徳的性格」を、ひとりひとりの子供の頭のなかの思想界に、着実に実現していくための方法として、ヘルバルトは「教育学(ペダゴギーク)」という学問を組立てていったのである。

続き

二つの教育観

教育が果たす役割についてみていくときにも、二つの観点がある。まず、微視的な観点、すなわち個人に焦点をあわせた観点からすれば、教育とは潜在的な発達の可能態として生まれてくる人間(子供)に働きかけて、その可能態を現実態にしていく営みといえる。この観点からは、「教育とは子供が発達していくのを援助することである」という定義がしばしばなされる。昭和初期の代表的な日本の教育学者篠原助市(1876―1957)は、「教育は被教育者の発展を助成する作用である」と明確に定義している。この場合、教育の対象はひとりひとりの人間(子供)であり、教育は親と子供、教師と生徒などの直接的な関係のなかでなされるものとみなされる。

 それに対して、巨視的な観点、つまり社会の側の観点からすれば、教育とは、社会の文化や言語や生活様式や決まりなどを、新たに社会に加わってくる人々(子供たち)に伝えていき、彼らを社会の成員にしていく営みである。この観点からは、「教育とは子供を社会に適応させることである」という定義がなされる。「教育とは社会化(ソーシャリゼーションsocialization)である」といわれることもある。篠原よりやや遅れて、第二次世界大戦の前後に活躍した教育学者の宮原誠一は、教育を、「自然成長的な形成の過程を望ましい方向にむかって目的意識的に統制しようとする営みである」と定義したが、ここでいわれる「統制」の主体は、教師だけには限らない。それぞれの社会が、それぞれの「望ましさ」に基づいて形成過程に統制を加えていくこともまた、含まれている。

 微視的に眺めれば、教育は発達の助成であるが、巨視的に眺めれば、教育は社会化であり社会による統制である。この二つの観点と定義は、ちょうどメダルの表裏の関係にあって、切り離すことができない。子供の発達を助けることは、その子供を社会のなかに適応させるためになされることであり、反対の側からみれば、子供の社会的適応を促すことが子供の発達を助成することになる。

 イギリスの教育哲学者ピーターズRichard Stanley Peters(1919―2011)は、発達の助成と社会的適応というメダルの両面の意味をこめて、「教育とはイニシエーションである」と定義している。子供は、公的な社会生活の場でなりたっている文化形式や思考形式のなかに引き入れられていき、そのなかで人間として生きていく共通の基盤、つまり「生活の形式」が育てられていく、とピーターズはみている。

 ただし、このように、発達の助成と社会的適応を矛盾や食い違いのない同一のプロセスとみなすことができるのは、社会が、これまでと同様に、そしてこれからも大きな変動もなく安定して存在し続けていく(あるいは、安定して存在し続けていってほしい)と考える限りにおいてである。そうした伝統主義、保守主義の見方をもはや前提にしていくことができないようなときには、子供の発達の助成と社会への適応との関係は、それほど単純なものではなくなる。とくに、「社会」といっても、そのなかにさまざまな文化的背景をもつ人々が交じりあっていたり、社会の未来像がはっきりとは描けなくなったりしてくると、教育の本質を「発達」とか「適応」などの名目で語っていくこと自体が現実味を失ってくる。なぜなら、どちらの語り方も、目的なり前提なりがすべての人に明確なものである限りにおいて意味をもつからである。目的、つまり最終的な到達点がはっきり示されないまま、発達について語ったり、教育の本質は発達を促すことであると抽象的に論じても、あまり意味のあることとはいえない。目的(ギリシア語でテロス)や目的論が不確定なまま、方法や方法論の側から、「一時に一事を」とか「易から難へ」という教育の原理がたてられることもある。しかし、目的論を抜きにして方法論の有効性を語ることはむずかしい。「方法」の原義(ギリシア語でメタ・ホドス)は、「道にしたがってたどっていく」ことである。どこにたどり着く道なのかが、道の本質であるはずである。[宮寺晃夫]

教育の可能性と必要性