教育権と学習権

教育権と学習権

近代教育の理念は、教育権や学習権の問題を究明することによっていっそう明らかとなる。自我の自覚は人権思想を生み、近代教育思想は、この人権思想に基づいて子供の権利を発見した。そして、この問題は教育行政理論において、国民の教育権保障のための公教育の組織・運営をその基本問題たらしめた。

 教育権には普通「教育内的権能」と「教育外的権能」が所属する。前者は、教育活動における具体的な教育内容の決定と実施にかかわる権能であり、後者は、教育内容に関する教育行政権のことである。教育権は「教育をする権利」を意味する。これに対して学習権は、一般的には「教育を受ける権利」を意味し、日本国憲法第26条1項の教育に関する憲法上の人権に基づいて、教育を受けて学習する者の立場が自主的、積極的であるべきことを内容としている。[大谷光長・神山正弘]

教育権の歴史的展開

近代の初めに、一般的には子供の権利の承認が、また教育的には子供の教育を受ける権利、つまり学習権が発見された。この発見は二つの問題を含んでいた。第一は、子供の内面の形成にかかわる問題であって、教育は国家権力が干渉できない私事事項とされ、教育の私事性(市民社会において人を教育することは私事であるという考え)が求められた。第二は、教育方法における子供の自主性尊重の問題であって、詰め込み教育が強く否定され、また望ましい教育形態は、親や家庭教師による家庭での個人指導であることが主張された。[大谷光長・神山正弘]

学校の誕生

やがて、学校を必要とする社会事情が生じた。学校という教育機関で、近代教育の理念をどう生かすべきかの問題が、新しい教育課題となった。この新教育課題の解決において、公権力からの教育の独立と教育の私事性の組織化とが、依然として大きな比重を占めていた。学校は公費によって設置され、また公立学校は無料、子供の就学は強制されない、という認識が定着していった。そして、教育はもっぱら知育に限定され、公教育から宗教・道徳の教育が除かれ、徐々に教育の世俗性が浸透していった。このようにして公教育の輪郭がしだいに明らかにされたのである。[大谷光長・神山正弘]

近代教育思想の変容

時代が進み、資本主義体制が成立し、さらに産業資本主義が確立するに及んで、近代教育思想の原則はすこしずつ変容していった。具体的には、大衆教育への国家介入が要請され、一つの公教育観が成立して、ここに従来の原則の大幅な修正の一歩が踏み出された。やがて18世紀後半から19世紀前半にかけて、産業資本主義の確立期を迎えたとき、大衆の教育機会の拡大が生じた。工場学校、若干の企業立工場学校などの設立が企画され、大衆教育のイニシアティブは旧勢力から新興ブルジョアジーの手に移行した。このようにして、資本主義的現実にこたえる公教育思想は、教育学者堀尾輝久(1933― )のいわゆる三重構造の特徴をもつことになった。すなわち、国家の教育介入を否定する考え方と、大衆教育への国家介入の考え方とが同居することとなった。ヨーロッパの先進国も19世紀後半に入るや、古典的市民社会は大きく転換し、独占資本主義の段階に進み、国家もまた福祉国家・大衆国家へと変貌していった。そして、しだいに労働者階級の自己教育思想が開花期を迎えた。と同時に、国家が道徳の教師として、大衆教育を指導するようになった。[大谷光長・神山正弘]

教育の現代化

教育の現代化

第二次世界大戦後、教育方法の改革に国家が本腰を入れて取り組むようになるきっかけをつくったのは、ソビエト連邦による世界最初の人工衛星の打上げ成功(1957)であった。アメリカは、この「スプートニク・ショック」によって科学技術の立ち後れを思い知らされ、理科や数学などの自然科学系の教科をはじめとして、各分野の教科でいっせいに内容の高度化を図ることになった。この傾向は、その後1960年代にかけて世界的な傾向となり、「教育の現代化」とよばれた。アメリカでは、とくに物理、科学、生物、地学の領域からなる理科において、それぞれに対応する科学分野の最先端の成果を、大学のみではなく、小学校・中学校の教科内容にも反映させる努力がなされた。この分野の教育方法改革に主導的な役割を果たしたのが、ハーバード大学教授のJ・S・ブルーナーであった。ブルーナーは、デューイの活動主義・経験主義の教育理論にのっとった従来の教育方法を改めて、認知心理学に基づく「ニュー・ルックNew Look」の教育方法を提案した。

 ブルーナーは、大きな影響力をもった著書『教育の過程』(1960)で、「どの年齢のだれに対しても、どんなものでもそのままのなんらかの形で教えることが可能である」という確信のもとで、「教材の構造化」の方法を提起している。それは、活動主義・経験主義の方法のように、知識の範囲を子供の経験の世界のなかだけに限るようなやり方を改めて、科学の系統性に従い、最先端の科学に至るまで、子供に習得させるべき基礎的な知識を配列していくやり方である。その際、知識を構成する概念を、幹に相当するものと、枝に相当するものと、葉に相当するものに区別して、それぞれの重みづけを変えながら全体を構造づけていくべきである、と主張した。幹にあたる基礎的、基本的な概念を確実に理解させることが重要で、それは将来いっそう複雑な問題を解いていくときの鍵になる、とした。そうした基礎的、基本的な概念を学習させていくために、学習を「何かのためにする学習」から、「それ自体のおもしろさのためにする学習」にしていく必要性を強調し、「内発的な動機づけ論」を唱えた。

 教育の現代化は、日本の教育課程行政にも影響を及ぼしている。1960年代には、経済の高度成長の要請とも呼応して、理科などの自然科学系の教科や、国語・数学(算数科)などの基礎学力系の教科内容が重視され、配当時間数が多かったが、第二次世界大戦直後に復興した「新教育」の目玉的な教科であった社会科は、配当時間が削られたばかりでなく、活動主義・経験主義の後退とともに、知識の記憶という側面に傾斜し、形骸化を余儀なくされていった。

 教育の現代化は、子供に高度な内容の学習を求めるため、平行して教科内容の精選をも進めていかなければ、期待するほどには子供の学習意欲を喚起することにはならないのではないか、と指摘されてきた。1970年代には、この指摘のとおり、学習に無気力な子供が多くみられるようになった。そこで、「子供たちにゆとりを与える」という目標のもとで、学校での教育内容のなかで、教科以外の教育活動(「特別活動」)の時間が増やされたり、それぞれの学校が創意工夫をこらして自由に活用する時間(「自由裁量の時間」)が教育課程のなかで必修化されたりした。そうしたカリキュラム改革の延長上で、子供に「生きる力」をつけ、「心の教育」を実現していくための教育改革が、1980年代には、政府に直属する異例の審議会である「臨時教育審議会(臨教審)」を中心に展開されていった。その後の教育改革は、単に教育内容や方法の改革にとどまらず、教育制度や行政のあり方の改革をも含んだ、教育という社会システムの全般にかかわる規模で進められている。そしてそれは、20世紀から21世紀への国家・社会のあり方とも連動して、ますます政治課題化してきており、こうした動きは日本だけのローカルな現象ではなく、先進諸国がいっせいに取り組んでいるグローバルな現象である。[宮寺晃夫]

日本の新教育運動

日本の新教育運動

「新教育」の名のもとでの教育改革運動のうねりは、日本にも及んでいる。それは主として大正時代に集中しているので、「大正新教育」とも、「大正自由教育」ともよばれるが、その発端は、明治時代末期の画一主義的な教授法への改革として始まった。日本の新教育運動の先駆者の一人の樋口勘次郎(1871―1917)は、児童たちを学校の外に連れ出し、都市のさまざまな光景や文物にふれながらの遠足をさせ、後日そのときの観察結果を材料にして授業を行うというような実践を、すでに明治30年代にしている。経験や活動を通しての授業である。また、この時期に、これまで教師の側からのみみられてきた授業を、子供の側からみていくような発想法、つまり「児童中心主義」の発想も現れている。それに伴い、「学習」ということばが教育用語のなかに登場するようになった。

 「学習」も、「教育」と同じように、漢語、日本語として長く使われてきたことばであるが、明治末期から大正期にかけて、英語の「ラーニングlearning」の意味を伝えるための翻訳語として転用されていくようになった。樋口は、『統合主義新教授法』(1899)で、「教授が学問を児童に課するは、之により児童を刺激して、ある種の活動をおこさしめ、由(よっ)て以(もっ)て児童にある種の発達を遂げしむるものなり」と述べ、「ラーニング」に対応する日本語として「学問」をあてている。谷本富(たにもととめり)(1867―1946)は、『新教育講義』(1907)で、「教授の原則は生徒を輔導(ほどう)して自ら学ばしむるにあり」と述べて、「自学」をもって「ラーニング」にあてている。それに対して、及川平次(1875―1939)の『分団式動的教育法』(1912)になると、「学習の習慣がつくられておりませぬから、児童は卒業まぎわまで些細(ささい)の事に教師の手を煩わし、教師の手を離れては全く独立研究する力はありませぬ」と述べて、子供に自ら学ぼうとする習慣をつけていくことの必要性を説き、「学習法」という教授法を提案している。そして、大正自由教育運動の理論的な到達点の一つである木下竹次(1872―1946)の『学習原論』(1923)では、「学習」がキー・ワードとなって教育と教授の課題が語られていくようになる。木下は、「吾々(われわれ)は考えることを学び、鑑賞することを学び、行動することを学び、心理学的に云えば学習は心的作用の全体と関係して居る。生理学的に云(い)ふと生活の向上を図ることで自ら求めて善を行ふことである」と述べている。

 このように、「学問」と「自学」を経て「学習」という用語が使われるようになった。それまでは、「教授」ということばが示すように、教師の側からの教えるという行為が主流であったが、「学習」ということばの登場によって、子供の側に視点を置いての学ばせるという教師活動が重要とされるようになった。前述で取り上げた書物の著者は、いずれも日本の新教育運動を理論面で指導した研究者である。[宮寺晃夫]

20世紀の教育改革運動の諸相

20世紀の教育改革運動の諸相

20世紀を目前にして、スウェーデン社会運動家エレン・ケイは『児童の世紀』(1900)を書いている。そのなかでケイは、きたるべき新しい世紀には、子供が大人たちの勝手な支配から解放され、子供の幸福が真に保障されることになるであろうと予言した。もっとも、ケイの趣旨は、優秀な種だけを後世に残すように、社会が優生学の発想を採りいれるべきである、ということにあったのであり、問題を含んでいた。ケイの予言どおり20世紀には、子供は児童労働から解放され、学校教育が保障されるようになったばかりでなく、ムチと罰で学習を強制されるような教育の方法から解放されていった。しかし、そうした教育の改革が真に子供の幸福をもたらしたかどうかは、別の問題である。

 19世紀から20世紀にかけて、「新教育」あるいは、「改革教育」を標榜する教育の実践家や理論家が世界各地に現れた。彼らが共通にいだいていたのは、子供の教育法を改革することによって、社会そのものを改革していくことであった。ドイツでは、ケルシェンシュタイナーが、デューイが唱えた活動主義教育を、将来の国家・社会の担い手としての「公民」形成に応用していこうとした。彼は、将来の学校は「作業学校(アルバイト・シューレ)」でなければならないとした。子供は、作業に取り組むなかで、作業が要求する「事物に即した考え方」をすることに習熟するだけではなく、勤勉さという徳や奉仕の精神をも身につけていく。作業の道徳教育的な効果に、ケルシェンシュタイナーは注目したのである。また同じドイツで、子供たちを都会から引き離して、郊外の学校に入れ、そこでの集団生活を通して将来海外に雄飛していく人材を訓練していこうというこころみも盛んに行われた。このような学校は、「田園教育舎」とよばれた。

 国家目的と結びついた教育改革とは反対に、社会の現状に飽き足らずに、社会体制の変革を教育改革に託す人々もいた。イギリスの新教育の一翼を担ったニールAlexander Sutherland Neil(1883―1973)はその典型である。ニールは、支配する階級と支配される階級とに分かれてしまっているイギリスの社会をそのまま反映している教育状況を改革しようとした。そのために、ニールは、将来の子供たちに、人を支配しようとする気持ちや、人に依存して生きていこうとする気持ちが芽ばえないようにすることが重要だと考えた。歪んだ気持ちが芽ばえてしまうのは、子供が家庭や学校で、道徳や宗教を注ぎ込まれた結果、かえって罪悪感を抱くようになってしまったからである、とニールはみなした。とくに子供は、性に関する考え方と行動について、潔癖さのみが期待されてきたため、その抑圧から、虚偽に満ちた生き方をしてしまうことになる。そこで教育の課題は、なにより子供を抑圧から解放することでなければならなかった。ニールは、自分で設立した学校のサマーヒル学園で、出欠をとることを廃止したり、喫煙を許したりするなど、生徒たちの自由な判断を最大限認めた教育環境をつくった。ニールの実践に思想的なよりどころを与えたのは、フロイトの弟子で精神分析の技法を開発したW・ライヒであった。ライヒは性の解放と政治的解放とを結び付けた左翼系の精神分析家として知られていたが、ニールもまた、抑圧からの解放によって自由人をつくりだし、その自由人たちの共同体として社会をつくりかえようとしたのである。サマーヒル学園は1921年に設立され、ニールの死後、2000年現在なお自由教育のモデル校として存続している。[宮寺晃夫]

マカレンコと集団主義

マカレンコと集団主義

ソ連の教育実践家マカレンコは、20世紀の前半に、社会主義国家の建設という新たな課題を担うことができる人間像を、描こうとした。マカレンコは、非行少年の再教育に携わってきた経験を生かして、子供たちに、自分勝手なエゴに基づく行為を許さない教育を実践した。ただ、それは教師から子供への一方的な従属を強制する管理主義の教育ではなく、子供集団のなかでの規律の維持を通してなされる教育であった。教師もまた、その集団の一員として参加し、学校全体がひとつの集団として活動し、ひとりひとりの子供には、集団への貢献がしつけられるのである。こうした、個人の利益よりも全体の利益のほうを上位に置き、個人の幸福も全体の利益が確保されてはじめて保障される、という精神が「集団主義(コレクトビズム)」である。この集団主義の精神は、「人間に対するできるだけの要求と人間に対するできるだけの尊重」を強調したマカレンコの思想のなかから浮かび上がってきたものである。

 この集団主義教育は、第二次世界大戦後の日本にも紹介され、1950年代、1960年代の生活指導の方法論として影響力をもったことがある。学級のなかにいくつかの班をつくり、「核」とよばれるリーダーのもとで集団としての行動をしていくなかで、子供たちひとりひとりに個としての自覚を促し、集団の一員としての態度を育てていく。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」は、この生活教育運動を推進した教師たちが好んで口にした標語であった。このような実践は、社会主義社会に見合う人間像の創出をねらいとしていたというよりも、自分本位の生き方で退廃した青少年文化への対抗策として、日本の教師たちがマカレンコから学びながら編み出していったものである。[宮寺晃夫]

デューイの教育思想

デューイの教育思想

アメリカのプラグマティズムの哲学者として名高いJ・デューイも、社会主義や進化論などの新しい考え方がわきおこった19世紀後半の思想状況のなかで、さまざまな人々から豊富な刺激を受けながら自分の思想をつちかっていった。19世紀末には、シカゴ大学の付属小学校で児童に実験的な教育をこころみ、その成果を『学校と社会』(1899)で公表している。この本でデューイもまた、共同体、つまりコミュニティの崩壊を教育の問題としてとりあげている。数世代前の人々は、同じコミュニティのなかで生産と流通と消費をともに分かちあって生活してきたが、工場制度の浸透に伴って、生産は都市に集中し、流通も集約化され、子供たちにとって、自分たちの消費生活が何によって、まただれによって支えられているのかが実感できなくなってしまった。そうした社会認識の欠如を、デューイは、学校のなかに手作業をもちこむことによって、埋めあわせしようとしたのである。子供たちは、綿つみ仕事から服地の生産までの一連の手作業を課せられ、このプロセスで人類の知識・技術の歴史的な進歩のプロセスを学びとり、分業と協働の意義を実感し、さらに、目的をもって考えながら作業に集中していく習慣を身につけていく。これらの知識や資質は、産業社会に生きていくうえで欠かせない要素である、とデューイは考えたのである。デューイの教育思想は、「なすことによって学ぶ(learning by doing)」という標語によって語られることもあるが、この標語には、単に教育活動の方法原理の大切さが語られているだけではない。もはや、椅子にすわって教科書から学ぶだけでは、産業社会に生きていく人間の資質は形成することができない、という認識が込められているのである。ちなみに、この標語自体はデューイのものではない。[宮寺晃夫]

ヘルバルトの教育論

ヘルバルトの教育論

そうした「講壇教育学者」とよばれる人々のなかで、最終的に教育学を自由意思の哲学から切りはなして、自立した学問に仕上げていったのはヘルバルトである。教育学は、子供の頭のなかの思想界を、どのように形成していくかという実際的な問題とかかわる学問であり、子供の側に自由意思があることを認めてしまえば、形成作用そのものが成りたたなくなってしまう。思弁的な議論をするのが教育学なのではなく、思想界がどのようなメカニズムで動いているのかを探ることこそが、教育学の課題である、とヘルバルトはみなした。その課題を、ヘルバルトは、独特の表象力学の理論を用いて果たそうとした。それは、子供が獲得する知識を表象(イメージ)に分解して、表象と表象との結合や反発の自己運動として、頭のなかの思想界を説明していくという理論である。この理論によると、意思のような力も、表象の結合の結果生まれてくる力である、ということになる。教授のような、直接的には知識の伝達を課題とする作用も、表象の結合のさせ方しだいで、意思の教育にもつながっていく。「教育していく教授」の理論、つまり教育的教授論がヘルバルトの教育学の核心にあった。

 ヘルバルト晩年の著作『教育学講義綱要』では、「教育学は、教育の目的を倫理学に依存し、教育の方法を心理学に依存する学問である」と規定されている。こうした二面的な性格づけは、教育学という学問を一種の応用科学にするとともに、国家などから特定の目的が教育にもちこまれることを許すことになった。19世紀中ごろから後半にかけてヘルバルトの後を継いだツィラーTuiskon Ziller(1817―1882)、ラインWilhelm Rein(1847―1929)たちは、「ヘルバルト派」とよばれる。彼らによって、教育学は教授技術のための学問としての性格をいっそう強めたばかりでなく、すべての教授が目ざさなければならない道徳的な目的が、郷土への愛情などというナショナリズムの教育目的と結びついていくようになっていった。ヘルバルト派の教育学は、日本にも明治後期に紹介され、それ以前に推進されていた開発主義の教授法にかわって、公教育の現場に大きな影響力を及ぼした。小学校の一時間一時間の授業は、「予備・提示・比較・総括・応用」の5段階をおって進められるようになり(五段階教授法)、公教育の定型化が促されていった。また、「修身」を首位の教科とする教科科目の編成に、裏づけが与えられていったのである。[宮寺晃夫]

ディルタイの教育理念

19世紀の後半は、労働者が階級意識に目覚め始め、社会主義思想が国民大衆の間に少しずつ浸透するようになった。それに対抗する自由主義思想も起こり、社会全体の統一性が失われていった。このような危機的な社会状況のなかで、教育研究においても、これまで「教育学」の名のもとで教育の実践に規範を一律に掲示してきたことに対して、疑いが抱かれるようになった。複雑化した社会状況を背景にして、ドイツ人のディルタイは、「どのような社会にも普遍的に妥当であるような教育学はありうるのか」という問いかけをしている。ルソーのように、自己の欲望を抑えられるような人間像を理想としたり、ヘルバルトのように、道徳的性格を備えた人間像を理想としたりするのは、ディルタイからすれば、それぞれの社会の歴史的状況のもとで必要とされたことであって、どのような教育目的も普遍的にあてはまるわけではない。これまで人々が考えてきた教育の課題は、歴史から与えられてきたものにすぎない、とディルタイはみなした。

 こうした歴史主義・相対主義の立場にたちながらも、ディルタイは、「生きる」という根本的な、ある意味では生物学的な本性をすべての人が共有していること、そして、他者に対して連帯感を抱いていく根本的な傾向が人間にはあることを認め、そうした「心情」をより道徳的な方向に育てていくことで、社会共同体の再建を目ざそうとした。教育に普遍的な目的があるとすれば、文化それ自体というよりも、文化を生み出していく人間の精神にまでさかのぼらなければ、探しあてられないと考えたのである。[宮寺晃夫]