教育の社会史

教育の社会史

事実としての教育ばかりでなく、実践としての教育も、その歴史は人類史とともに古い。子育てやしつけの技法は、親から子へと連綿と伝えられてきたし、また、それぞれの社会には、「一人前」として認められるための目安が受け継がれてきた。一日一反の耕作や、米俵一俵・力石をかつぐことなどで、「大人」としての力量が量られるという風習は、各地で永く伝えられてきた。また、子供から大人になるまでに何段階かの区切りを設け、それぞれの通過儀礼を経ることによって、共同体の一員としてだんだん認知されるようになるというシステムも存在してきた。それらは、教育方法あるいは教育課程(カリキュラム)とよばれるには、あまりに大雑把で実用本位のものであり、また地域に特有のものである。日本では、子育てや産育の習俗を民俗学の手法で調査し、その伝統を、日本人の教育観の土台に位置づけていくような研究が、第二次世界大戦の前から地道になされてきた。なかでも、柳田国男(やなぎたくにお)、橋浦泰雄宮本常一(みやもとつねいち)、大藤(おおとう)ゆきの業績はよく知られている。彼らの研究によって、日本人が子供を神からの授かりものとしていつくしむと同時に、生みの親だけではなく、世間が力をあわせて子供の成長を見守り、子育てに責任を分かちあってきたことが明らかにされた。「親」は、もともと、生みの親だけをさすことばではなく、名付け親・養い親・親方・親分などをも広くさし、このような人々全体で子供の養育、生活指導、職業指導、生活保障などを分かちあう連合体を意味していた。

 しかし、現代社会においては、地域のなかで連帯してなされる子育ての知恵が急速にくずれてきており、それを受け伝えるシステムが機能しなくなってきているという問題が浮上している。

 外国人の視点からなされた研究例として、アメリカの文化人類学者R・F・ベネディクトは、著書『菊と刀』(1946)のなかで、日本の教育について、「日本の子育ての風習が、日本人のパーソナリティーの形成に影響を与えており、とくに、日本人の内向性と対外的な残忍性とには、幼児期の母子関係の癒着がかかわっている」とする分析を行っている。

 ヨーロッパでは、近年、社会史という歴史学の新しい手法を用いて、大人たちの目に映った「子供像」の歴史的な変遷をたどる研究がなされている。フランスの歴史家アリエスは、中世から近代にかけての家族の肖像画や、子供の墓碑銘などを史料として分析していき、人々が「子供」を「大人」とは異なる独自の存在として庇護(ひご)の対象にするようになっていったのが、歴史上それほど古いことではなく、近世の始まりのころからであることを実証的に明らかにしている。一般には、西欧社会での「子供の発見」は、近代の思想家ルソーに帰せられるが、社会史のうえでは、それよりも早く人々の心性(メンタリティー)のなかに芽ばえていたのである。教育思想史や、学校制度・教育政策の歴史などのうえには記録として残されてこなかった教育の実態が、一般民衆の生活レベルで少しずつ解明されてきている。