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古代・中世における教育研究

古代・中世における教育研究

社会が、その成員によって価値観を共有されていて、伝統的な慣習や習俗が、そのまま保たれている状態にある限り、「教育はどのように営まれるべきか」というような、改まった問い直しがなされることもない。しかし、その社会のなかに、さまざまな考え方の人々が流れ込み、一元的な世界ではなくなってくると、人々は、「さまざまな価値のうち、どのような価値をこそ、子供たちに伝えていかなければならないのか」ということを考えなければならなくなる。教育に関して、このような反省的な思考がいちはやく展開された社会は、古代ギリシアであった。

 「ポリス」とよばれる古代ギリシア都市国家では、長期にわたったペロポネソス戦争(紀元前431~前404)のあと、異邦人たちの流入が相次ぎ、国としての安定性が短期間に失われた。それまで受け継がれてきた因習だけで、ものごとの善し悪しを判定することができなくなってしまった。不安定で複雑化した国家の状況を背景にして、慣習や習俗だけではなく、反省的な思考を働かせることによって、「善きもの」や「真なるもの」を導き出していこうとする知識人たちの活動が始まった。「善きもの」や「真なるもの」を見極める方法を、青年たちに、技法として教えることを職業とする知識人も登場するようになった。このような「ソフィスト」とよばれる一群の知識人のなかに、哲学史上有名なソクラテスがいる。

 ソクラテスが教育研究の歴史のうえで重要なのは、なによりも、青年たちに教えていくべき「善きもの」や「真なるもの」が、社会のこれまでの因習のなかだけに求められるものではない、としたことにある。ソクラテスは、「善とは何か」などと青年たちに問いかけ、対話を通して、青年たちをしだいにディレンマ(ジレンマ)に追い込んでいった。そのうえで、彼らに「無知の自覚」、つまり、知っているつもりでいたが、実は何も知らなかったのだという自覚を促し、一緒に真理を探求していこうという意欲を呼び起こしていった。このソクラテス独特の真理の探求法は、教育の方法としては「ソクラテス法」とも「助産法」ともよばれている。ソクラテスは、「知識を技術のように授けていくこと」という教育の常識をくつがえして、「知識は産ませるものである」という画期的な教育観を導入したのである。

 ソクラテスは、自分自身はたったの一語も書き残していないが、弟子のプラトンが書いた対話篇(へん)のなかに、ソクラテスの言動が記録されている。そのなかでも、自分自身の死を賭(か)けて、人はどのように生きるべきかを人々に教えようとした『ソクラテスの弁明』と『クリトン』そして、道徳を教えることはできるのかという問題をきっかけにして、「教える」という営みそのものを説き明かしている『メノン』と『プロタゴラス』は、教育研究の発端を示すものとして重要である。

 プラトンは、ソクラテスの死後、ソクラテスを主人公とする対話篇を数多く書いたが、しだいに自分自身の独自の考え方を盛り込むようになっていった。とくに、中期以降といわれる作品群では、ソクラテスの口を借りて、プラトン独自の世界観を展開している。それは理想主義とも観念論ともよばれる世界観で、「善きもの」や「真なるもの」が存在する場所を「イデアの世界」とみなし、この世の経験界から区別するもので、二元論の世界観であった。教育の課題は、この世の経験界につなぎとめられている人々を目覚めさせて、イデアの世界に目を向けさせることに求められた。中期の著作とされる『国家』のなかでは、洞窟(どうくつ)に鎖でつながれ入口の方を振り向くことができなくなっている人々のことが語られている。人々は、ただ、洞窟の奥の壁に映っている陰を真実だと思い込んでいるだけである、とプラトンソクラテスに語らせ、彼らを入口の光源の方に向き直させることが哲学者の使命で、その哲学者を養成するためにこそ教育はなされなければならないとしている。理念ともいえる、あるべき姿との対比を通して、経験界の現実や現象を批判的に考察していく論じ方が、その後「プラトン主義」の名で継承されていくことになる。

 アリストテレスは、プラトンが設立した学園アカデメイアで学んだプラトンの教え子であるが、プラトンとは異なり、自然や経験界の事象を丹念に観察することによって、ものごとの本質に迫ろうとした。人間の生き方も、生まれおちた国家(ポリス)のあり方と結びついており、この意味で人間は「ポリス的存在(ゾーン・ポリティコン)」であり、教育もこの制約のなかでなされるほかない。人はそれぞれ、各自の職能によって独自の徳すなわち役だち(アレテー)をもっている。つまり、船をつくることが上手な人には、船づくりの徳が備わっている。しかし、そうした個別の徳のほかに、あらゆる人がもたなければならない「人間としての徳」もあるはずで、それはその人が属している共同体、つまり国家に対してどれだけの奉仕をしているかで定まることである、とアリストテレスはみなしている。つまり、共同体を離れて人間としての徳を抽象的に論じても、意味のないことである。こうした、「共同体主義」とも「アリストテレス主義」ともよばれる考え方は、アリストテレスの著書『ニコマコス倫理学』に系統だって述べられており、プラトンの『国家』と同じように、その後中世、近代、現代に至るまで、教育研究の古典として読み続けられている。

 古代ギリシアで、国家の危機とともに始められた教育研究は、続く古代ローマの時代には、ローマ帝国の確立とキリスト教の国教化に伴い、しだいに普遍性(カソリシズム)を志すようになり、神学の教義研究のなかに埋没していく。ストア派の開祖となったゼノン(キプロスのゼノン)のように、アリストテレスの考えを引き継ぎ、ものごとの本質(ロゴス)を、その表れとして質料のなかに探ろうとしたり、キケロのように、政治家として活躍するかたわら、現実に対して懐疑的に向き合ったりする者もいた。

 やがて、ローマ帝国の末期には、アウグスティヌスによって、「三位一体」の教義に基づくキリスト教神学が確立される。子供の教育も、「カテキズム」とよばれる、教会による教化の一環として教義問答書の教え込みとしてなされた。一般的に教育研究も、教え込みの技法の開発に限られ、新たな人間像を提示するなどの、教育の目的にまで踏み込んだ課題が追究されることはなかった。しかし、「普遍的なものではない」という意味での「インディヴィドゥウム」、つまり「個としての個」にまなざしが注がれるようになったのは、けっして近代になってからのことではなく、中世のキリスト教教義をつくった人々の間で、すでに始っていたのである。[宮寺晃夫]