ヘルバルトの教育論

ヘルバルトの教育論

そうした「講壇教育学者」とよばれる人々のなかで、最終的に教育学を自由意思の哲学から切りはなして、自立した学問に仕上げていったのはヘルバルトである。教育学は、子供の頭のなかの思想界を、どのように形成していくかという実際的な問題とかかわる学問であり、子供の側に自由意思があることを認めてしまえば、形成作用そのものが成りたたなくなってしまう。思弁的な議論をするのが教育学なのではなく、思想界がどのようなメカニズムで動いているのかを探ることこそが、教育学の課題である、とヘルバルトはみなした。その課題を、ヘルバルトは、独特の表象力学の理論を用いて果たそうとした。それは、子供が獲得する知識を表象(イメージ)に分解して、表象と表象との結合や反発の自己運動として、頭のなかの思想界を説明していくという理論である。この理論によると、意思のような力も、表象の結合の結果生まれてくる力である、ということになる。教授のような、直接的には知識の伝達を課題とする作用も、表象の結合のさせ方しだいで、意思の教育にもつながっていく。「教育していく教授」の理論、つまり教育的教授論がヘルバルトの教育学の核心にあった。

 ヘルバルト晩年の著作『教育学講義綱要』では、「教育学は、教育の目的を倫理学に依存し、教育の方法を心理学に依存する学問である」と規定されている。こうした二面的な性格づけは、教育学という学問を一種の応用科学にするとともに、国家などから特定の目的が教育にもちこまれることを許すことになった。19世紀中ごろから後半にかけてヘルバルトの後を継いだツィラーTuiskon Ziller(1817―1882)、ラインWilhelm Rein(1847―1929)たちは、「ヘルバルト派」とよばれる。彼らによって、教育学は教授技術のための学問としての性格をいっそう強めたばかりでなく、すべての教授が目ざさなければならない道徳的な目的が、郷土への愛情などというナショナリズムの教育目的と結びついていくようになっていった。ヘルバルト派の教育学は、日本にも明治後期に紹介され、それ以前に推進されていた開発主義の教授法にかわって、公教育の現場に大きな影響力を及ぼした。小学校の一時間一時間の授業は、「予備・提示・比較・総括・応用」の5段階をおって進められるようになり(五段階教授法)、公教育の定型化が促されていった。また、「修身」を首位の教科とする教科科目の編成に、裏づけが与えられていったのである。[宮寺晃夫]

ディルタイの教育理念

19世紀の後半は、労働者が階級意識に目覚め始め、社会主義思想が国民大衆の間に少しずつ浸透するようになった。それに対抗する自由主義思想も起こり、社会全体の統一性が失われていった。このような危機的な社会状況のなかで、教育研究においても、これまで「教育学」の名のもとで教育の実践に規範を一律に掲示してきたことに対して、疑いが抱かれるようになった。複雑化した社会状況を背景にして、ドイツ人のディルタイは、「どのような社会にも普遍的に妥当であるような教育学はありうるのか」という問いかけをしている。ルソーのように、自己の欲望を抑えられるような人間像を理想としたり、ヘルバルトのように、道徳的性格を備えた人間像を理想としたりするのは、ディルタイからすれば、それぞれの社会の歴史的状況のもとで必要とされたことであって、どのような教育目的も普遍的にあてはまるわけではない。これまで人々が考えてきた教育の課題は、歴史から与えられてきたものにすぎない、とディルタイはみなした。

 こうした歴史主義・相対主義の立場にたちながらも、ディルタイは、「生きる」という根本的な、ある意味では生物学的な本性をすべての人が共有していること、そして、他者に対して連帯感を抱いていく根本的な傾向が人間にはあることを認め、そうした「心情」をより道徳的な方向に育てていくことで、社会共同体の再建を目ざそうとした。教育に普遍的な目的があるとすれば、文化それ自体というよりも、文化を生み出していく人間の精神にまでさかのぼらなければ、探しあてられないと考えたのである。[宮寺晃夫]