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日本の新教育運動

日本の新教育運動

「新教育」の名のもとでの教育改革運動のうねりは、日本にも及んでいる。それは主として大正時代に集中しているので、「大正新教育」とも、「大正自由教育」ともよばれるが、その発端は、明治時代末期の画一主義的な教授法への改革として始まった。日本の新教育運動の先駆者の一人の樋口勘次郎(1871―1917)は、児童たちを学校の外に連れ出し、都市のさまざまな光景や文物にふれながらの遠足をさせ、後日そのときの観察結果を材料にして授業を行うというような実践を、すでに明治30年代にしている。経験や活動を通しての授業である。また、この時期に、これまで教師の側からのみみられてきた授業を、子供の側からみていくような発想法、つまり「児童中心主義」の発想も現れている。それに伴い、「学習」ということばが教育用語のなかに登場するようになった。

 「学習」も、「教育」と同じように、漢語、日本語として長く使われてきたことばであるが、明治末期から大正期にかけて、英語の「ラーニングlearning」の意味を伝えるための翻訳語として転用されていくようになった。樋口は、『統合主義新教授法』(1899)で、「教授が学問を児童に課するは、之により児童を刺激して、ある種の活動をおこさしめ、由(よっ)て以(もっ)て児童にある種の発達を遂げしむるものなり」と述べ、「ラーニング」に対応する日本語として「学問」をあてている。谷本富(たにもととめり)(1867―1946)は、『新教育講義』(1907)で、「教授の原則は生徒を輔導(ほどう)して自ら学ばしむるにあり」と述べて、「自学」をもって「ラーニング」にあてている。それに対して、及川平次(1875―1939)の『分団式動的教育法』(1912)になると、「学習の習慣がつくられておりませぬから、児童は卒業まぎわまで些細(ささい)の事に教師の手を煩わし、教師の手を離れては全く独立研究する力はありませぬ」と述べて、子供に自ら学ぼうとする習慣をつけていくことの必要性を説き、「学習法」という教授法を提案している。そして、大正自由教育運動の理論的な到達点の一つである木下竹次(1872―1946)の『学習原論』(1923)では、「学習」がキー・ワードとなって教育と教授の課題が語られていくようになる。木下は、「吾々(われわれ)は考えることを学び、鑑賞することを学び、行動することを学び、心理学的に云えば学習は心的作用の全体と関係して居る。生理学的に云(い)ふと生活の向上を図ることで自ら求めて善を行ふことである」と述べている。

 このように、「学問」と「自学」を経て「学習」という用語が使われるようになった。それまでは、「教授」ということばが示すように、教師の側からの教えるという行為が主流であったが、「学習」ということばの登場によって、子供の側に視点を置いての学ばせるという教師活動が重要とされるようになった。前述で取り上げた書物の著者は、いずれも日本の新教育運動を理論面で指導した研究者である。[宮寺晃夫]