教育の現代化

教育の現代化

第二次世界大戦後、教育方法の改革に国家が本腰を入れて取り組むようになるきっかけをつくったのは、ソビエト連邦による世界最初の人工衛星の打上げ成功(1957)であった。アメリカは、この「スプートニク・ショック」によって科学技術の立ち後れを思い知らされ、理科や数学などの自然科学系の教科をはじめとして、各分野の教科でいっせいに内容の高度化を図ることになった。この傾向は、その後1960年代にかけて世界的な傾向となり、「教育の現代化」とよばれた。アメリカでは、とくに物理、科学、生物、地学の領域からなる理科において、それぞれに対応する科学分野の最先端の成果を、大学のみではなく、小学校・中学校の教科内容にも反映させる努力がなされた。この分野の教育方法改革に主導的な役割を果たしたのが、ハーバード大学教授のJ・S・ブルーナーであった。ブルーナーは、デューイの活動主義・経験主義の教育理論にのっとった従来の教育方法を改めて、認知心理学に基づく「ニュー・ルックNew Look」の教育方法を提案した。

 ブルーナーは、大きな影響力をもった著書『教育の過程』(1960)で、「どの年齢のだれに対しても、どんなものでもそのままのなんらかの形で教えることが可能である」という確信のもとで、「教材の構造化」の方法を提起している。それは、活動主義・経験主義の方法のように、知識の範囲を子供の経験の世界のなかだけに限るようなやり方を改めて、科学の系統性に従い、最先端の科学に至るまで、子供に習得させるべき基礎的な知識を配列していくやり方である。その際、知識を構成する概念を、幹に相当するものと、枝に相当するものと、葉に相当するものに区別して、それぞれの重みづけを変えながら全体を構造づけていくべきである、と主張した。幹にあたる基礎的、基本的な概念を確実に理解させることが重要で、それは将来いっそう複雑な問題を解いていくときの鍵になる、とした。そうした基礎的、基本的な概念を学習させていくために、学習を「何かのためにする学習」から、「それ自体のおもしろさのためにする学習」にしていく必要性を強調し、「内発的な動機づけ論」を唱えた。

 教育の現代化は、日本の教育課程行政にも影響を及ぼしている。1960年代には、経済の高度成長の要請とも呼応して、理科などの自然科学系の教科や、国語・数学(算数科)などの基礎学力系の教科内容が重視され、配当時間数が多かったが、第二次世界大戦直後に復興した「新教育」の目玉的な教科であった社会科は、配当時間が削られたばかりでなく、活動主義・経験主義の後退とともに、知識の記憶という側面に傾斜し、形骸化を余儀なくされていった。

 教育の現代化は、子供に高度な内容の学習を求めるため、平行して教科内容の精選をも進めていかなければ、期待するほどには子供の学習意欲を喚起することにはならないのではないか、と指摘されてきた。1970年代には、この指摘のとおり、学習に無気力な子供が多くみられるようになった。そこで、「子供たちにゆとりを与える」という目標のもとで、学校での教育内容のなかで、教科以外の教育活動(「特別活動」)の時間が増やされたり、それぞれの学校が創意工夫をこらして自由に活用する時間(「自由裁量の時間」)が教育課程のなかで必修化されたりした。そうしたカリキュラム改革の延長上で、子供に「生きる力」をつけ、「心の教育」を実現していくための教育改革が、1980年代には、政府に直属する異例の審議会である「臨時教育審議会(臨教審)」を中心に展開されていった。その後の教育改革は、単に教育内容や方法の改革にとどまらず、教育制度や行政のあり方の改革をも含んだ、教育という社会システムの全般にかかわる規模で進められている。そしてそれは、20世紀から21世紀への国家・社会のあり方とも連動して、ますます政治課題化してきており、こうした動きは日本だけのローカルな現象ではなく、先進諸国がいっせいに取り組んでいるグローバルな現象である。[宮寺晃夫]