日本における教育権の変遷

日本における教育権の変遷

日本では、国家の教育権が明治の欽定(きんてい)憲法大日本帝国憲法)下において、教育大権ないし勅令主義という形で、教育の義務づけや内容決定を行った。国家の教育権が法制定に完全に貫かれていたわけで、各学校令(勅令)は教科目を規定する、ついでその委任を受けた文部省令が教則(各教科の要旨などを記入したもの)を決める、そして各学校はこの教則に基づいて、校長が教授細目(年間の授業内容の程度と配列を記入したもの)を作成する。教師は校長の検閲を受けて指導案を作成する。以上の記述からわかるように、天皇の教育大権が学校教育の隅々まで貫徹するように仕組まれていた。しかし第二次世界大戦後の日本の教育改革は、被教育者の自由を基本とするものであった。敗戦の苦しい体験のなかで、日本の教育は大きく自由主義個人主義に転化していった。教育基本法の制定は、教育勅語失効を決議せしめた。教育の目的が自主的精神に満ちた個人としての人間の育成にあるという教育基本法の教育目的規定は、近代の教育理念である「教育の私事性」の確認以外のなにものでもない。

 しかも、近代教育理念の「教育への国家不介入の原則」は、現教育行政制度の三大特色である民主主義、地方分権主義、一般行政からの独立主義からわかるように、国家その他の権力の介入を許さないことをたてまえとしている。また「教育の目的はあらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」(教育基本法第2条)ということは、教育の非権力性の原理と国民の教育の自由とを述べていると考えられる。このようにみてくると、近代教育理念における教育権の特色は、現行の教育制度の中核となっている感さえする。[大谷光長・神山正弘]

国民教育制度の発展

 

 一般に、教育の理念が実現されるためには、それが制度化されることが必要である。理念に対応した制度が確立してこそ、人々はその理念の実現を期待できるからである。[大谷光長・神山正弘]

教育の機会均等と歴史的発展

近代の教育思想のもっとも本質的な部分は、子供の権利を承認することである。子供の権利を発達の側面から考察すると、それは、子供の内的諸力の全体的な発達保障を意味しており、またこの自由な発達は、教育機会の平等保障を必要条件とする。つまり、子供の権利の問題は、発達における子供の自由と平等の問題と密接にかかわっているのである。そして、このことの制度化における基本原則は、とりわけ教育の機会均等にみいだされる。

 この教育機会均等の問題は、すでにドイツの宗教改革者ルターが提起している。彼は、子供たちが聖書を読み、神意を理解するために、彼らの就学を督励し、必要があれば強制的に無償で教育を行う必要性を説いた。また、フランス革命の有力な指導者の一人であったコンドルセは、教育を宗教団体の手から解放し、無償で全市民に教育の機会を与える公教育組織の樹立を提案した。しかし、18世紀後半のフランスの学校教育は、依然として特権的支配階級によって独占されていて、保護者の社会的身分・経済的地位などの外的条件による制約が多かった。この傾向は、とくに大学への進学の場合に著しかった。しかも、一般庶民は初等教育を受けることすら十分でなかった。[大谷光長・神山正弘]