日本の国民教育制度

日本の国民教育制度

日本の国民教育制度の成立事情は、ヨーロッパ諸国のそれと比較して著しく異なっている。なるほど、日本の学校制度のなかには、ヨーロッパの学校制度の模倣・移植が若干みいだされる。たとえば、統一学校がそれである。しかしそれは、見せかけの統一学校であったということができる。1872年(明治5)文部省は「学制」を発布し、統一的な国民教育制度を発足させた。けれども、そのための財政の裏づけは皆無であった。初等・中等・高等の3階梯(かいてい)の学校制度が、学区制によって全国統一的に実施された。思うに、統一的学校制度を実現しようとする努力は、それなりに評価されてよい。が、精神の伴わない形だけの模倣は、その後の国民教育制度の展開をゆがませてしまった。「学制」の趣旨は、身分・性別・貧富などを問わず、すべての国民が就学できる点にある。ところが、学校は、立身出世するため学問をするところであり、その意味で学校は、各人に役だつことを教えるところであるとされた。そのため、学校に必要な経費は受益者負担が原則とされ、また徹底した中央集権制が採用された。「学制」の内容を分析して気づくことは、子供の権利としての学習権はみいだされるが、それは「子供の自由」に裏づけられていないことである。教育費も無償でなくて、受益者負担であった。このようでは、教育の機会均等はしょせんたてまえ論の域を出るはずはなかった。

 明治前期から後期、そして大正期、さらに昭和の初期、対日講和条約(1952発効)以前の中期を通して、統一学校の国民教育制度は一貫してその命脈を保ってきたが、各時期の特質でその中身は大きく変わってきた。そして、昭和も中期以後、つまり第二次世界大戦後占領下の、また講和条約以降の教育になって、初めて統一学校は子供の権利(自由)の実現を目ざし、近代教育理念の実現が課題となったのである。[大谷光長・神山正弘]

日本の教育

日本の教育は、大きく分けて、まず大陸文化依存の教育時代、次に日本文化自覚の教育時代、そして西洋文化摂取の教育時代を経て、現代の高学歴の教育時代に達したとみることができる。以下に日本教育史を概観する。[大谷光長・神山正弘]

大陸文化依存の教育

古代から鎌倉時代までが、大陸文化依存の教育時代と考えられる。応神(おうじん)天皇のとき百済(くだら)から阿直岐(あちき)・王仁(わに)が来朝。552年には百済から仏教が伝来した。仏教の普及は学術・美術・工芸の進歩を促進した。聖徳太子は、607年ごろから隋(ずい)に大使・留学僧・留学生を派遣して、先進国である隋の政治・学事などを学ばせた。また、天智(てんじ)天皇によって庠序(しょうじょ)が創設された。庠序は日本初の官立学校である。

(1)奈良時代の教育事情 710年(和銅3)都が奈良に移り、奈良時代が始まった。遣唐使に随行して、留学僧・留学生が入唐(にっとう)し、また多くの碩学(せきがく)・名僧が来朝し、帰化した。701年(大宝1)の大宝律令(たいほうりつりょう)によって、日本最初の学制が敷かれた。そして、国都に大学寮1校、地方の各国に国学1校ずつが設置された。

(2)平安時代の教育事情 794年(延暦13)都は京都に移り、平安京と命名され、平安時代が始まった。この時代の特徴は、中国文化同化の傾向であり、漢文学が発達し、詩文集の編集がなされ、平仮名・片仮名の国字がつくられ、和歌・和文が発達した。教育の面では、官に登用する人材の発掘と養成を主目的とする大学寮・国学が、改革を繰り返した。しかし、その衰退を防止するまでには至らなかった。他方、空海が創設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、階級や僧俗を問わず世の人を教育して、盛んであった。[大谷光長・神山正弘]

日本文化自覚の教育

やがて世は日本文化自覚の教育時代を迎えた。それは鎌倉時代南北朝時代から江戸時代までを包含している。1192年(建久3)源頼朝(よりとも)は鎌倉に幕府を創立した。鎌倉文化の特徴は、和漢混交の新文体に象徴される日本文化の自覚のなかにみいだされる。教育の面では、官・私立の学校が廃止され、学校以外、つまり家庭、学者の家、および寺院などでの教育が盛んになった。その際、寺院は主として初等教育にあたり、高等専門教育については禅宗の僧堂や勧学院がその中心であった。また社会教育においては、念仏宗日蓮(にちれん)宗・禅宗などの仏教新宗派が民衆を教化した。そして、各地に文庫が設立され、書籍・絵画・器物などが収集・所蔵されて、多数の人々を啓蒙(けいもう)した。

(1)南北朝時代の教育事情 1336年(延元1・建武3)後醍醐(ごだいご)天皇は吉野(よしの)に移った。一方では、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都にあって光明(こうみょう)院を天皇として擁立した。いわゆる南北朝時代である。一般に、この時代は乱世に終始した観があるが、文化・教育の面から考察すると、国民の自覚、日本思想の独立がみいだされ、日本文化本位の教育への移行を看取できる。学問は、朱子学の研究が盛んである一方、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究も盛んであった。『庭訓往来(ていきんおうらい)』は、庶民を主体とする当時の教育実践のようすをまざまざと思い出させる。そして、官立の教育機関はまったく廃絶し、わずかに僧侶(そうりょ)による児童教育、つまり寺院教育がその命脈を保っていた。

(2)室町時代の教育事情 1392年(元中9・明徳3)吉野の朝廷と京都の朝廷が合体し、足利氏が政治上の実権を握った。室町時代の幕開きであった。この時代は政変続出の、世にいう下剋上(げこくじょう)の時代であったが、庶民教化はその最盛期を迎え、社会教育もまた活発であった。また、下野(しもつけ)国(栃木県足利市)の足利学校は、儒学中心の教育を実施し、関東文教の中心的位置を占めていた。そして、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に設立されたセミナリオ、コレジオは、キリスト教の伝道・布教だけでなく、また西洋の学術・文化の伝達のうえでも功績があった。家庭教育関係でいえば、家訓・『花伝書』などを活用して、人々の日常の心得、芸能の精進の方法などが教えられた。

(3)近世封建社会の整備・完成・崩壊 時代の進行とともに、近世封建社会は整備され、完成し、やがて崩壊していった。織田信長が安土(あづち)に築城した1576年(天正4)から、長い江戸時代を経て、廃藩置県によって新しい行政制度が実施された1871年(明治4)までの約300年の長い時代が、該当するのである。近世封建社会の人々にとって、身分は侵すことのできない絶対的なものであった。けれども、やがて商業資本主義・貨幣経済時代の到来・定着につれて、人々は身分制度が人間の自然に反することに気づき、その意味で武士中心の社会に虚偽的なものを感じ始めた。そこでまず、封建社会の主役を勤めた武士の教育について述べ、次に、庶民の教育を明らかにする。

(4)江戸時代の武士・庶民の教育事情 武士の教育機関としては、まず家塾と私塾とがあげられる。家塾は、幕府・諸藩に仕えていた儒官が、幕府・諸藩の内意を得て、旗本・藩士の子弟を教えるところであった。なかでも、江戸幕府が保護していた林家の家塾昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)は最大のものであった。私塾では、中江藤樹(とうじゅ)・伊藤仁斎(じんさい)などの塾がその代表的なものであったが、幕府・諸藩に仕えなかった民間の有識者が任意に設けたのが私塾であった。次に藩学がある。藩学は、昌平黌の設営と前後して、諸藩がそれぞれの領内に設けたものであった。

 庶民の教育には、もっぱら寺子屋があたった。寺子屋の教育内容は、主として読み・書き・算盤(そろばん)であったが、習字・お茶・いけ花・裁縫などを教えるところもあった。次に、寺子屋よりやや程度の高いものに郷学(ごうがく)があった。池田光政(みつまさ)が岡山藩内に設けた123の手習所などがそれである。さらに、近世の中ごろから成人の教化運動が盛んになった。幕府・諸藩は、教諭所および教諭書によって庶民の教化を図り、封建社会の秩序維持に努めた。江戸時代中期になると、石田梅岩を始祖とする心学運動が生じた。心学は、神道(しんとう)・儒教老荘の学・仏教などに基づいて、聖賢の教えを平易に解説することを旨としていた。そのほか、二宮尊徳・大原幽学などの社会教化運動が活動していた。[大谷光長・神山正弘]