西洋文化摂取の教育

西洋文化摂取の教育

1872年(明治5)「学制」が発布され、国民教育制度がスタートした。当時の日本の切実な課題は殖産興業と国民皆兵であった。この課題の達成をめぐる問題が、日本の近代教育制度の展開を特色づけた。

(1)明治5年の「学制」発布 「学制」はフランスの学校制度をモデルとし、またその功利主義的教育観は、アメリカから学んだものであった。1879年(明治12)教育令が制定され、それはアメリカ的自由を基調としたものであった。翌年に改正教育令が制定され、反動化の第一歩が始まった。すなわち教育の基本精神は儒教的道徳にある、という傾向が表面化してきた。この傾向は、1890年の教育勅語渙発(かんぱつ)によって決定的となった。

(2)教育思想の輸入と教育方法の変遷 1879、1880年(明治12、13)ごろから、ペスタロッチの開発主義的教授法やH・スペンサーの功利主義的、自然主義的教育思想が輸入され、1887年になると、ヘルバルト派教育学説が紹介された。いわゆる五段階教授法(予備・提示・比較・総括・応用)が、教育実践の場で好んで行使されるようになった。

(3)実業教育の振興計画 明治政府は、資本主義的産業を促進して、富国の実現を期し、そのための実業教育を盛んにする計画をたてた。明治前期は、産業を促進する外的条件が十分成熟していなかったので、実業教育は期待するほどには進展しなかった。しかしその後、日本資本主義経済が発達するにつれて、実業教育は拡充の一途をたどることになる。

(4)教科書の検定制度と国定制度 明治期の教育において、教科書の国家統制の問題は重要な意味をもっていた。ひとことでいって、それは国民の思想を画一的体制化するのに一役買ったのである。1886年(明治19)教科書検定制度が制定され、しばらくこの制度が運用されていたが、1902年(明治35)教科書疑獄事件が発生したこともあって、翌1903年に教科書国定制度が発足した。この制度は1947年(昭和22)まで続いた。

(5)大正期の新教育運動と昭和期のファシズム化への傾斜 大正期の教育では、大正デモクラシーと新教育運動が特筆される。この時期の教育思想は、デモクラシー思想の導入と、児童心理の重視とをその両輪とする。このことは、ドイツのケルシェンシュタイナーの労作教育論やアメリカのデューイの生活即教育論などが紹介され、また国内でも八大教育主張などが提唱されたことなどから、うかがい知ることができる。そして、当時の教育界で話題になった自由選題主義作文、および雑誌『赤い鳥』の創刊は、明らかに児童中心主義的教育論に立脚するものであった。

 資本主義の発達は、当然、高等教育機関を拡充させた。官立高等専門学校旧制高等学校ナンバースクール以外の高等学校などが、質・量ともに拡充されたのである。しかし、1917年(大正6)から1919年3月まで、総理大臣の諮問機関であった臨時教育会議は、大正デモクラシーの風潮にはきわめて批判的であって、機会あるたびごとに天皇国家主義に基づく倫理の確立を関係者に強いた。

 1927年(昭和2)の金融恐慌、1929年の世界経済恐慌、1931年の満州事変の勃発(ぼっぱつ)、1932年の上海(シャンハイ)事変と五・一五事件、1936年の二・二六事件、1937年の日中戦争、1941年の対アメリカ・イギリス・オランダ開戦――昭和前期の日本は、上記の戦争と事件の連続そのものであった。したがって、この時期の日本教育は、ファシズムへの対応を軸として展開していた、といっていい。なかでも五・一五事件二・二六事件は、日本の教育をファシズム化へと傾斜させたのである。そして1935年の教学刷新評議会の答申、および1937年の教育審議会の答申は、この傾斜をいっそう決定づけた。1940年に小学校が国民学校と改称され、「皇国民」の錬成が教育の目的となった。ただ戦争に勝ち抜くために、超国家主義化・軍国主義化が重点教育政策となった。

(6)戦後教育の出発 1945年(昭和20)8月、第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言の受諾を回答、終結した。戦後の教育は1946年の日本国憲法、1947年の教育基本法、学校教育法に基づいて展開していった。まず、六・三・三・四制の学校制度が発足した。これは、教育の機会均等の理念の実現であり、男女共学を原則とするものであった。また新しい教科として社会科が誕生した。社会科は、学童たちに社会生活を全体的に理解させ、その変化・発展に参加する能力と態度の育成を意図した教科である。これに伴い、戦前の修身科は廃止されたが、1958年に小・中学校に「道徳の時間」が特設され、実施されることになった。

 教育内容・方法は一変した。教育内容は、自主編成ということもあって、カリキュラムの型、編成の諸問題に始まって、教育内容の現代化・精選などの問題に取り組むまでになった。また教育方法においては、問題法、プロジェクト・メソッド、および討議法などを重視する単元学習が採用され、さらに問題解決学習、発見学習、範例学習、ならびに教育機器によるプログラム学習などが実施されてきた。そして、教育評価に関する研究が続けられた結果、客観的な学習評価の仕方が普及したのである。

 また教科書検定制度は、国定教科書の廃止に伴って、第二次世界大戦後ずっと続いてきた。その間、検定機構の整備が繰り返しなされてきた。家永(いえなが)三郎著『新日本史』(高等学校用教科書)の検定をめぐって、1965年(昭和40)第一次教科書訴訟が、そして1967年第二次訴訟、1984年第三次訴訟が起こされ、1997年8月、第三次訴訟が終審し、32年にわたる訴訟が終結した。[大谷光長・神山正弘]