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教育」をもっとも広義にとらえるならば、教育は人間の身体面・精神面のどちらの面にも影響を与えるすべての作用をさしている。その作用には、家庭生活や社会活動を通して自然に与えられる影響のように、作用を及ぼす者、作用を受ける者両者ともに意識していない部分も含まれる。この広義の意味において「無意図的教育」とよばれ、また、社会の機能に付随した作用であるので「機能としての教育」ともよばれ、さらに、学校などの制度のなかでなされる作用ではないので、「非制度的教育(インフォーマル・エデュケーション)」ともよばれる。どれが好ましい作用で、どれが好ましくない作用かという価値判断を超えて、あらゆる種類の教育を含んでいる。それは、家庭のような小規模の社会から、地域社会、市民社会、国家、民族というような規模の大きな社会まで、どのような社会にも事実として付随している。それはまた、社会のなかで現になされている教育のことであり、社会を維持し保存していく根源的な機能である。こうした教育のことを、フランスの社会学デュルケームは「事物としての教育(エドゥカシオンducation)」とよび、「実践としての教育(ペダゴジーpdagogie)」とは区別した。

 それに対して、「教育」を狭義に用いる場合には、「教育」は意図的な人間形成作用をさす(意図的教育)。学校教育のような教育、つまり、目的や目標を頭に置いて、その実現のために必要な内容を選び、内容を伝えるにふさわしい方法を工夫していくような実践が、狭義の教育である。実践としての教育は、事実として社会の機能に付随している教育(非制度的教育)とは異なり、好ましさや適切さや有効性などの価値判断がつねにつきまとっている。現代の教育問題を議論する際にしばしばみられる混乱は、議論の当事者たちが、広義・狭義のどちらの意味で教育を問題にしているのかが、はっきりと自覚されていないときにしばしば生じる。[宮寺晃夫]

教育とは何か