高学歴時代の教育

高学歴時代の教育

〔1〕生涯教育 高学歴の社会において、学校教育は表面上、制度的、形式的にいっそう振興した印象を与えている。しかし、急激な社会構造の変化、技術革新の波、余暇の増大などは、人々に生涯教育の必要を痛感させるまでになった。限られた学校教育の成果だけで人生を乗り切ることは不可能であって、人は生涯にわたる職業専門的な知識・技能の獲得、社会学習の絶えざる受容、文化的・芸術的活動や社会奉仕的活動への参加を、自己の人生課題とすべき必要に気づいたのである。ユネスコの学習権宣言(1985)は、その思想の集約である。

〔2〕教育の病理現象 「豊かな社会」は、いくつかの重大な教育病理現象を生んだ。

(1)児童の非行の問題

(2)児童の生活体験不足の問題

(3)児童の学校不適応の問題

である。(1)は、家庭内暴力、校内暴力、暴走族、シンナー遊び、不純な性行動などにみられる。これらは、いずれも対症療法では解決が困難であり、構造的に正しく対応する必要がある。また(2)は、マッチでうまく火がつけられない、あるいは友達と思いきり遊び、高所に登ったり、幅の狭い所を歩いたりして、スリルと冒険心を満足させない、あるいは植物栽培や小動物の飼育で感じる新鮮な感動を味わえない、などにみられる。児童の生活体験不足の問題は、「サバイバル・アクティビティsurvival activity(生き残れる能力)」の形成・強化の提案を生んだ。子供が山野の自然のなかで生活し、鳥を友とし、木や草花の精を感じ取るなどの体験が、つまり学校外活動における体験が、その子供の人格形成に果たす役割の重要さに注目する必要がある。(3)は、いじめ、不登校、暴力など、能力・学歴社会のストレスを背景とする不適応の問題である。

〔3〕国際理解教育・平和教育・人権教育 日本が情報化時代のなかで世界に貢献し、発言するために、とくに

(1)国際理解の教育

(2)平和教育

の二つが必要である。(1)については、日本は資源に乏しいので、世界に貢献できることといえば、諸科学の基礎理論について優れた業績をあげることが考えられる。同時に対人関係の社会的技術の学習が肝要である。日本人は、島国のなかで生活してきたこともあって、外国語の習得や対人関係の諸技術の学習に関して、一般的に不得手であった。しかし、こうした状況を乗り越えて、日本人は今後ますます国際的に通用する教養や考え方を身につける必要がある。(2)の平和教育についていえば、日本は世界最初の被爆国であり、そのうえ戦争放棄憲法にはっきりうたいあげている国であることからいって、人類の生存と繁栄のため、世界平和の実現に努めることは、日本人の使命であろう。平和の問題は、日本人がリードすることによって、世界の人々の心からの協力を得ることができる、と考えられる。人権教育については、国連の提起や児童の権利条約も踏まえ、より徹底した人権の理解と行動の教育が求められている。[大谷光長・神山正弘]

各国の教育の歴史

 

 次に、アメリカ、ドイツ、中国、ロシア、そしてインドネシアの教育について、沿革を眺めてみたい。

 これらの国々は、いずれも過去・現在にわたって、日本と深いかかわりをもち続けている。アメリカの場合、デューイやキルパトリックの教育理論、および第二次世界大戦後来日したアメリカ教育使節団の教育改革に関する提言などが考えられる。またドイツの場合、ドイツ教育学の日本教育理論への影響は、とくに教育哲学の分野において著しい。ペスタロッチやフレーベルの教育思想、および精神科学的教育理論などは、わが国の教育哲学の発展に影響を与えてきた。そして中国の場合、儒教文化の渡来は、日本人の精神態度を形成するのに貢献してきた。中国からの長い文化の影響を抜きにして、日本人の精神形成を述べることはむずかしい。さらに、ロシアの場合、教育問題における日本のそれとの関係は、ひとことでいえるほど単純ではない。しかし、個人と集団の関係、教科外活動論(学校外活動論)など、体験を基盤とする旧ソビエト教育理論は、日本の教育問題の解明に貴重な視点を与えてきた。最後にインドネシアの場合、1942年から1945年にかけて、第二次世界大戦下における数々の不幸が思い出される。独立後のインドネシアは、建国の大原則のもとで教育の基礎理念を明らかにし、教育問題の解決に積極的に取り組んでいる。

 その国の教育はその国の国民を形成するもっとも大きな要因であることを想起すれば、その国の教育の歴史を正しく把握することが必要であろう。[大谷光長・神山正弘]

アメリカの教育

 

植民地時代

1620年に始まるピューリタンの北部ニュー・イングランドへの移住は、アメリカ植民地建設の第一歩であり、アメリカの教育もこのときに始まった。1642年義務教育令が公布され、1647年には各タウンに初等学校の設置が義務づけられた。子供は読書能力や有用な手職技能を身につけることができた。それに先だって、1636年にハーバード・カレッジが開設され、このカレッジ入学のための準備教育をする中等学校としてラテン・グラマー・スクールが設立された。南部は、農場での働き手が不足していたので、イギリス本土から「年期契約奉公人」が送り込まれた。これらの人々の多くは、おおむねわが子の将来に対して無関心であった。教育は政府の責任ではなく、これらの子供のための教育は徒弟制度や、若干の慈恵学校、農場跡学校old field shoolsで行われた。[大谷光長・神山正弘]

18世紀の教育事情とアメリカの独立

18世紀の初期、北部ニュー・イングランドでは、商人階級が新興勢力として登場した。このことは、北部の社会や文化・教育を大きく変えた。商業的、現実的関心が従来の宗教的関心にとってかわった。カレッジ入学の準備教育を主としたラテン・グラマー・スクールは衰退し、実際的な教育内容(航海術、測量術、簿記、フランス語、スペイン語など)を教えるアカデミーが設立された。また、高等教育機関の教育内容の再編が実施され、伝統にとらわれない新しい型のカレッジ(キングズ・カレッジ――後のコロンビア大学フィラデルフィア・カレッジなど)が創立された。

 南部では、黒人奴隷制が導入された。この導入は従来の南部の労働構造を変え、社会体制の変革を促した。バージニア州では10万エーカー(4万0468ヘクタール)あるいは30万エーカーの農園所有者が出現し、やがてこれら大地主が政治の支配者となった。彼らは自分の子弟に家庭教師をつけたり、またヨーロッパの学校、大学に遊学させたりした。他方、奥地に逃げ込まざるをえなかった小農民階級は、辛い開拓生活を余儀なくされ、また子供の教育のため、自ら管理・運営する学校(地区学校district school)をつくった。

 1776年7月4日、ジェファソンは、人間の自由・平等を基調とする「独立宣言」を起草した。1783年、アメリカ合衆国が正式に承認された。1787年5月25日、フィラデルフィアで合衆国憲法制定のための会議が開かれた。そして、北東部商工業者や保守派政治家が、この合衆国憲法の制定・批准、新政府の実現に尽力した。やがて彼らは国事を支配し、教育・文化のうえでの特権をも享受するに至った。ここにきて、独立革命時における教育機会の拡大、および公立無償の学校制度への情熱は後退し、為政者の、教育へのエネルギーは、もっぱらアカデミーの衣替えとカレッジの拡充に向けられていった。[大谷光長・神山正弘]