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教育することができ、また教育することが必要となる理由についても、個人の観点と社会の観点の両面から考えることができる。

 近代ドイツの哲学者カント(1724―1804)は、18世紀の末になされたケーニヒスベルク大学での教育学講義のなかで、「人間は教育されなければならない唯一の生きものである。……人間は教育によってのみ人間になることができる。人間は、教育が人間からつくりだしたものにほかならない」といっている。これは、人間が人間として生きていくうえで、教育が、いかになくてはならないものであるのかを強調するためにいわれたことばである。教育の可能性と必要性は、このように、人間という種の特異性から説明されることが多い。

 現代オランダの教育人間学者のランゲフェルトMartinus J. Langeveld(1905―89)は、人間がみな、初めは子供として生まれ、存在しているという自明のことに人間の本質を洞察し、独特の人間学を展開しているが、人間は、まさしくホモ・エドゥカンドゥムhomo educandum、つまり「教育を必要とする存在」なのである。

 ランゲフェルトは次のように述べている。たしかに、人間は、生物の他の種とは異なり、生後かなり長い期間、自力による摂食や歩行や意思伝達ができず、それらの能力は本能というよりも、周囲の大人たちからの世話を通して少しずつ可能になっていく。人間の新生児には、自主的に行為を発動させる本能は備わってはいない。ただ、周囲の人から世話を受けるという依他性が、組み込まれているだけである。この依他性という本性が、人間に教育が可能であることと、教育が必要であることの説明原理として使われ、教育を社会的、歴史的な文脈のなかで意義づけていく説明原理にもなる。

 カントは前掲の教育学講義のなかで、次のようにも述べている。「かつて同様に教育された人間によってのみ教育されるのは、注目すべきことである。そうであるから、若干の人々に訓練や教授がたりないのは、その人たちの児童にとってよくない教師をつくることになる。」

 教育は世代から世代へとなされる作用であり、連綿と続けられてきた歴史的、文化的なつながりのなかで、各世代はそれぞれ次世代への責任を引き受け、伝えるべき内容の選択や、伝え方についての工夫を重ねてきた。そのときそのときの文化の状況や政治・経済のあり方とも密接に関わりをもちながらである。ドイツの神学者シュライエルマハーは、19世紀の前半にベルリン大学でなされた教育学講義のなかで、教育が成長世代から未成長世代になされる作用であるとしたうえで、だからこそ、教育は単なる人間形成のための技術というよりも、政治と結びついた技術であると述べている。

 教育は人間の種としての特異性に基づいて可能になり、必要となるが、同時に、人間が歴史のなかで社会を形成し、その社会を世代を超えて受け継いできたからこそ、教育は可能になり、また必要となるのである。[宮寺晃夫]

教育目的論と教育目標論

実践としての教育は何を目ざしてなされるべきなのか、という議論は、「教育目的論」のなかで行われる。一般的に、教育目的論の課題は、教育を受けた結果完成される人間像を描くことである。その人間像は、理想的人間像のように理念として描かれる場合もあるが、それよりも実際的な、実現の可能性のあるレベルで描かれる場合もある。実現可能な場合の理論を、とくに「教育目標論」とよぶ。

 近代ドイツの教育学者ヘルバルトは、教育研究の歴史のうえで画期的な書物である『一般教育学』(1806)を書いているが、これには、「教育の目的から導かれた」というサブ・タイトルがつけられている。その「教育の目的」の規定を、ヘルバルトはまず、人々が子供の教育に携さわるときにどのような意図と願いを抱くのか、ということを考えることから始めている。人々は、子供の幸せや、社会に出てから役だつなどの現実的な目的を、「教育の目的」として思い描いてきたが、そうしたこの世での「任意の目的」のほかに、すべての人が無条件で従わなければならない「必然の目的」もあるはずで、こうした目的こそが、「一般教育学」を導いていく「教育の目的」である、とヘルバルトはみなした。それが「道徳的性格」という目的である。この概念の内容を、ヘルバルトは、経験界を飛び越えた思弁の世界で抽象的に語るのではなく、芸術的素養豊かな彼独自の美学に従い、かつ一般の人々が理解できる平易なことばで説き明かしていった。「道徳的性格」を、ひとりひとりの子供の頭のなかの思想界に、着実に実現していくための方法として、ヘルバルトは「教育学(ペダゴギーク)」という学問を組立てていったのである。