近世教育論の諸相

近世教育論の諸相

近世最大の教授学者は、チェコ人のコメニウスである。コメニウスは、祖国が三十年戦争にみまわれるなか、国内外で逃亡生活をしいられながら、教授法の改革による世界平和の実現を説いて回った。その主著『大教授学(ディダクティカ・マグナ)』(1657)は、「あらゆる人に、あらゆる事柄を教授する普遍的な技法」を示すことをねらいとして書かれている。そこで示された教授の技法は、たとえば、草木が季節にあわせて花を咲かせ、実をつけるように、時期をとらえて教えることが大切だ、というような自然をモデルにした技法や、職人たちの手作業の技(わざ)から学びとった技法などが中心で、それらが、だれでも理解できるわかりやすい語り口で、体系的に述べられている。また、教科書としてつくられた『世界図絵(オルビス・ピクタス)』(1658)は、実物を表す挿絵と、それを説明するチェコ語、ドイツ語、ラテン語が併記されていて、「すべての人」を教育の対象にしていることが示唆されている。コメニウスは、教授法という技法の改革を、新しい世界の実現と、新しい世界の担い手の形成という展望のもとで構想したのである。

 フランスの思想家ルソーも、くずれゆく身分制社会と、新たに生まれようとする市民社会に直面しながら、教育論に着手している。エミールという子供の成長過程を追いながら、新しい人間像を描いてみせた『エミール』は、身分制社会にかわる新たな社会像を示した『社会契約論』と同じ年の1762年に出版されている。「人間は自由なものとして生まれた。しかも至るところで鎖につながれている」という『社会契約論』の出だしは、「万物をつくる者の手を離れるときはすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる」という『エミール』の出だしと呼応している。身分制というしばりから解放され、お互いに自由な立場で交じりあうことができるようになった近代人は、市民社会という新しい社会制度をつくりだした。そこでは、人々は「人間(オンム)」としては自由であるものの、「市民(シトワイヤン)」としては相互に義務を負わされる。この人間としてのあり方と市民としてのあり方の両立を図ろうとする人は、結局のところどちらにもなれない。そうしたディレンマにたたされることになる近代人は、子供のうちから、欲望が自己の必要の範囲を超えないようにしつけられ、経験に先だって知識だけが広がってしまうようなことも控えさせられ、事物の必然性にのみ従うように教育されていく。啓蒙主義者のように子供に次々にものごとを教えていくことよりも、不必要な欲望をかきたてられないように、子供を外部の刺激から遠ざけておくような教育法が勧められる。積極的というよりも「消極的な教育」をこそ、ルソーは本来の教育であるとみている。このような教育観に達したのは、やがてドイツの哲学者ヘーゲルによって「欲望の体系」とみなされるようになる市民社会において、人々が、自己を失わずに、また他者を支配するような生き方をもしていかないようにするためであった。

 民衆教育の改革家であったスイス人のペスタロッチもまた、フランス革命後の内戦による政治的な混乱と、産業革命に伴う生活様式の激変から民衆を救い出すために、教育論に取り組んでいる。ルソーと同じように、ペスタロッチも、知識の普及による啓蒙活動だけでは、新たな時代状況のなかにいる人々を救い出すことにはならないと考えた。啓蒙活動よりも、自立への援助こそが民衆を救う方法で、これをペスタロッチは「自助への手助け」とよんでいる。前半生で、民衆とともに取り組んだ農場経営に失敗したあと、ペスタロッチは小作品『隠者の夕暮』(1780)と長編の教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781~1787)を書き、それらのなかで、民衆にとっての幸福は貨幣経済のなかに巻き込まれることを避けて、家族の家計をだいじに守り、身近な生活圏のなかによろこびを感じとることにこそある、と訴えた。子供の教育は、親と子供が、敬神と愛情とで結ばれている家庭のなかでこそ、なされるものである、とペスタロッチは説いたのである。ペスタロッチは、家庭の居間をモデルにして民衆のための学校を営み、そこでの実践の経験を踏まえて、初等教育の一般的教授法を打ちたてた。それが著作『メトーデ』(1800)、『ゲルトルートはいかにその子を教えるか(ゲルトルート児童教育法)』(1801)のなかで示されている。この教育方法論は、「直観のABC」ともいわれ、事物を正確に観察させることから始まって、その直観的な認識をことばで表現させ、事物の概念を形成させていく、という手続きを踏むものであった。分節化された概念形成の手続きが、教授法の段階的進行を定型化していくうえで基礎理論になっている。ペスタロッチ自身は、このことを「教授の機械化」とも「心理化」ともよんでいる。

 ペスタロッチの教育方法論は、その後ドイツをはじめヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国においても、教員養成のためのモデルとして用られた。やがてアメリカのオスウェゴー大学を経由し、日本の留学生によって、日本にももたらされている。「開発主義」とよばれた明治初期の教授法がそれである。[宮寺晃夫]

近代教育の指導理念

近世以来、新たな時代に対応する人間像が描かれ、そのイメージを現実のものにするための教育の方法原理が示されてきたが、そうした教育研究が「学問」に仕立てあげられるようになるのは、19世紀になってからである。なかでも、いち早く国民教育制度の整備に取り組んだドイツでは、大学での専門分野として「教育学」(ペダゴーギク)を生みだしている。教育学の前史をたどれば、18世紀後半のドイツの大学で、主として哲学部に所属する研究者によって教育学の講義がなされていたことに始まる。そのなかに、ケーニヒスベルク大学のカントもいたが、ほかにも、ハレ大学のニーマイヤーAugust Hermann Niemeyer(1754―1828)らがいた。彼らの多くは、当時の哲学の主流であったカントとフィヒテの哲学にのっとりながら、個人の自由意思を認めることと、その個人の意思への介入作用とが、どのようにして両立することができるのかという難問に取り組みながら、「教育(エアチーウング)」、「教授(ウンターリヒツ)」などの教育学の主要な概念を定義していこうとしていた。[宮寺晃夫]