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19世紀の教育事情、とくに教育改革運動

19世紀の教育事情、とくに教育改革運動

アメリカは18世紀後半から、産業革命およびそれに付随する経済活動の拡充で目覚ましい発展を遂げた。もっとも、1819年、1837年、1859年と近代的な経済恐慌にみまわれてはいる。一般的にいって、アメリカの近代産業化は、工場制度の拡大と工場労働人口の増大とを促進した。それは新たな社会階層の出現を意味している。アメリカ教育史のうえでは、公教育制度の成立がみられる。北部は、そして南部の場合には北部よりかなり遅れてではあるが、立法措置や公教育の行政機構の整備などによって、無月謝制学校の設置、特定の宗派・党派に偏しない中立的教育内容の確保、ならびにすべての市民の子弟の義務就学制の徹底を進めた。

 1860年、共和党リンカーンが第16代大統領に選出された。1861年、南北戦争が始まった。このアメリカ史上最大の内乱は、1865年北部の勝利となって終息した。南北戦争後の再建期のなかで、とくに重要となるのは、人種差別や奴隷制などによって公教育の機会を与えられてこなかったアフリカ系アメリカ人の教育問題であった。なかでも、解放民局の活動は目覚ましく、3000の学校を設置した。コモンスクールのモデルに従ってカリキュラムも整備し、アフリカ系アメリカ人教育の普及に努めた。

 南北戦争の余塵(よじん)も収まり、初等教育の義務制化が各州に普及し始めたころ、ペスタロッチ主義のオスウェゴー運動やヘルバルト学派の五段階教授法など、ヨーロッパ教育思想に基づく教育改革運動が起こった。しかし、デューイが実用主義的教育思想の教育論を精力的に展開したこともあって、アメリカ教育はヨーロッパ教育から直輸入することを取りやめ、独自の教育理論に基づく傾向をとり始めた。また教育制度面についていえば、公立ハイスクールが急速に増え、被教育者の進学増大の受け皿となった。そして州立大学が普及し、1910年代なかばには、州立大学は53校に達し、学生数も13万人を数えた。1876年創立のジョンズ・ホプキンズ大学は、アメリカ最初の本格的大学院を設置し、その後、19世紀末までに15の大学院が増設されたのである。[大谷光長・神山正弘]

20世紀前半の教育事情

20世紀に入ると、アメリカは典型的な産業ブルジョアジーの国家体制を成立させ、資本の独占化の兆しがみえ始めた。第一次世界大戦後のアメリカの教育政策は、次の3点において特徴的である。

(1)教師の忠誠宣誓規定。

(2)教科書の統制。とくに歴史教科書の規制が厳しかった。

(3)進化論禁止運動が目をひく。進化論は人間を動物の次元でだけ理解しようとする、それは人間の尊厳に考慮を払わないという批判が、その運動を支えていた。

思うに、これらの教育政策は、階級対立の激化や帝国主義戦争の危機を克服するために、国家主義愛国心の育成と、アメリカニズムによる体制強化の必要から生まれたものであろう。

 1929年10月、大恐慌ウォール街を襲った。この恐慌の破局的危機に直面して、当時の教育者たちは、あるべきアメリカの民主主義と教育のあり方とを追究する姿勢をとり始めた。この姿勢は、とりわけ進歩主義教育の台頭と、カリキュラム改造運動の展開とのなかにみいだされる。前者は、社会的・政治的圧力によって上から抑制されてしまった。また後者は、カリキュラムの類型・構成方法などについて多くの優れた業績を残した。[大谷光長・神山正弘]

20世紀後半の教育事情

1941年日米戦争が勃発(ぼっぱつ)し、1945年戦争は終結した。第二次世界大戦である。アメリカは戦勝国として、世界のリーダーの地位についた。

 第二次世界大戦後のアメリカの教育政策の特色は、戦中・戦後一貫している点にある。具体的には、以下の3点があげられる。

(1)大衆路線の教育構想であって、すべての青少年が最低12年間の学校教育を受けることができる。また、ハイスクール卒業後、1年ないし2年の教育が、希望者には公立教育機関において無償で提供される。

(2)エリート主義に立脚する能力主義構想であって、科学的天才に対する連邦政府奨学金計画などがその一端である。

(3)反共主義の鼓吹であって、アメリカ民主主義が反共の原則を土台としていることを明らかにしたのである。

 1950年6月、アメリカは朝鮮戦争に介入した。この時期からアメリカの教育は国防の道具と化した。しかも、反共イデオロギーの徹底化がその主要課題であった。1957年のソ連スプートニク打上げの成功は、ソ連に対する対抗意識を盛り上げ、またソ連との軍事科学競争を激化させ、ついに「科学技術エリート」の養成を緊急教育課題たらしめるに至った。1957年から1958年にかけて、ハイスクールのカリキュラム改造運動が生じた。その結果、従来の生活カリキュラムから学問中心のカリキュラムへと変貌(へんぼう)した。1960年代に入ると、ケネディ、ジョンソン政権は、アメリカのいま一つの重要問題に取り組むことになった。すなわち、現代の貧困問題にどう対応すべきかがそれであった。65年、初等中等教育法、高等教育法が成立した。初等中等教育法は、貧困家庭の子弟の教育援助を規定し、また高等教育法は、貧困家庭の子弟のうち能力のある者に対して、教育の機会と奨学金貸与をうたっている。

 いまひとつのインパクトは、教育における人種差別の撤廃であった。1954年のブラウン判決において、「分離すれども平等」論が否定され、ここに人種統合教育の新しい出発点が築かれた。64年の公民権法の制定もあり、「積極的類別」が推進された。

 1970年代は、全障害児教育法(1975)の制定はあるもののニクソン政権の下で連邦教育費支出減などの反動的措置が目だった。

 1980年代に入り、「危機に立つ国家」レポートを契機に「上からの教育改革」が推進されたが、後半に入り「下からの教育改革」が追求され、クリントン政権の教育改革政策へ引き継がれた。[大谷光長・神山正弘]