日本教育の概念は

日本でも、「教育」ということばは、外来語として上代以来『孟子』の出典箇所とともに知識人の間で知られていた(あるいは、使われていた)と思われるが、日本人が書いたもののなかに登場するのは、江戸時代になってからである。しかし、江戸時代の中期までの書物では、「教化」の使用の方が一般的で、江戸時代後期の書物になって、「教育」もようやく使用例が目だつようになった。幕末近くの安政年間(1854~1860)には、藩校など当時の支配階級のための学校で、学校の活動内容や目標を書きとめた文書のなかに、「教化」よりも「教育」の方が頻繁に使われていることが確認されている。

 しかし、エリート階層の子弟に学問を教えることだけではなく、一般庶民を含めて、子供の養育や成長・発達にかかわるさまざまなことがらを、「教育」ということばで論じていくというようなことは、江戸時代を通してまだみられない。そうしたことがらは、「教育」という漢語よりも、「おしえる」「そだてる」「やしなう」「しつける」「おそわる」「ならう」などの和語によって語られていた。「おしえる」の語源は「愛(を)しむ」であり、また「そだてる」の語源は「副立(そいた)つ」であるといわれる。どちらも、幼子(おさなご)をいつくしむ情感がこめられた日常語である。江戸時代には、儒学者貝原益軒(かいばらえきけん)(1630―1714)をはじめ多くの人々が多彩な子育て書を出しているが、そこでも「教育」の用例はみあたらない。益軒の『和俗童子訓』(1710)は、子供の成長段階を追いながら、幼児のしつけ方や習慣形成の仕方、勉学への導き方、さらに道徳や社会規範の身につけさせ方など、現代からみて教育のあらゆる領域にわたることがらを取り上げているものの、「教育」ということばの使用例はみられない。

 「教育」ということばが、家庭での子育てや、学校での教授活動、そして国の青少年育成方針に関することなどを広く、そして一般的、抽象的にさして使われるようになるのは、明治時代になってからである。「教育」は、英語の「エデュケーションeducation」の意味を移植するための翻訳語として使われるようになった。同じ翻訳語でありながら、たとえば、「社会」ということばが英語の「ソサイアティーsociety」の意味を移植するために、福沢諭吉のような特定の個人によって新しく造語されたのとはちがって、「教育」の場合は、漢語・日本語としてすでに流通していたものである。明治初期に、「教育」は、それまでの意味を換骨奪胎され、「エデュケーション」の意味を担う翻訳語として転用されることになったのである。

 英語の「エデュケーション」の用法は、漢語の「教育」のそれよりもはるかに広く、多岐にわたっている。歴史的にいえば、エデュケーションの対象になるのは子供childや若い人young personばかりではない。カイコsilkwormを養ったり、動物animalを飼い馴らしたりするようなことも、「エデュケーション」ということばで表現されていたし、エデュケーションを行う主体も、親や教師のような人間ばかりでなく、世間worldがしたり、周囲の状況circumstanceがしたりすることができた。